2009年9月 4日 (金)

アタマを使う体験学習

ある高校で「親子ものづくり教室」が行われ、その様子が新聞記事になっていました。


【親子でものづくりに親しむとともに、学校を身近に感じてもらおうと同校建築科が10年以上前から毎年企画。ことしは周辺の小学校4校から、午前と午後の部に合わせて54組の親子が参加した。

建築科3年の20人や教諭のサポートで、木製のふた付き小物入れ作りに挑戦。サンドペーパーで各パーツの木材の角を削った後、印を付けた場所にドリルで穴を開け、釘を打った。ー以下省略】


この記事読んで、何か、気になりませんか?


【各パーツ】

って、最初から所定の大きさに切り揃えられているのでしょうか?


【印を付けた場所にドリルで穴を開け】

この【印】って、最初から板についていたのでしょうか?

もしそうなら、失敗のしようがないですよね。


以前、堀さんが、幼児教室でのものづくりに関して、

「まず、はじめるなら、缶下駄づくりがいいですね。たくさん、いろんな大きさの缶を集めておくんです。その中から同じ大きさのものを二つ見つける、というのは、とても知的な作業なんです。」

という話しをしてくれたことを思い出しました。


そして、この間見た、南アルプス子どもの村小学校でのサマースクールの様子。

子どもたちは、適当な板を見つける、もしくは、切り出すところから始めていました。どこに釘を打つのかも、自分で考えていました。


白玉団子をつくっていた子どもたちは、ゆるくなったりかたくなったりの失敗を繰り返し、アタマを使って「良い塩梅」を見つけ出していました。


ビー玉パチンコの台を作っていた男の子は、考え込む様子が何度か見られました。


体験学習はアタマを使う、ということが、きのくにの教育を見てきて、よ〜くわかりました。

そして、子どもたちは、それをする力がある、ということもわかりました。


みんな、もっと、子どもたちに、任せてみればいいのになあ、と思います。


そういえば、もう少し前の新聞記事でしたが、やはり、子どもたちの「ものづくり」のことが載っていました。

夫が、「ちょっと、これ見てよ!なんか、びっくりするよな」と、新聞広げて持ってきました。


電車の先頭に張るような、ステッカーを作るということで、みんな出来上がったものを掲げて写真に映っていたのですが、それが、全員、同じなんです。

ブルーの台紙に白の【富士】という文字があって、その下に、番号(だったかな)が貼ってあるのです。


「切るのが大変でした」という小学生のコメントが載っていたので、たぶん、最初から書かれている文字を、切り抜いて台紙に貼ったのでしょう。


こういうこと、させる方もする方も、見てる親も、何も疑問に思わないんでしょうか?

私は見てて、ぞっとしました。


みんな同じ。
考えない。


こういうことに、慣れてしまってはいけないのではないかと、強く思いました。

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2009年6月24日 (水)

子どもの心にふれる

少し前の話題になりますが、熊本の小学校教師が、小学二年生の胸ぐらをつかんで壁に押し当てて叱った行為が、体罰にあたるかどうかの訴訟で、最高裁は「体罰ではない」という判断を下しました。(最後に読売新聞の記事を記載しておきます。)


ネットでみる限り、「体罰でないのは当然だ」「言ってもわからないんだからしょうがない」「そもそも教師を訴えるなんて、モンスターペアレントだろう」という意見が多く、うんざりしていました。


どうしてみんな、子どもを力で押さえ込みたいの?
怖がらせて言うことを聞かせて、それで満足なの?
恐怖からおとなしくなった子どもは、何が悪かったか、ほんとうに理解できているの?


下記に記載した読売新聞の記事には書かれていませんが、そもそも、男児が女の子を蹴って、それを教師が注意したところ教師のお尻をけったため、胸ぐらをつかんで壁に押しあて、「もうすんなよ」と言った、ということなのですが、どうしてその男児は女の子を蹴ったの?どうして注意されても教師に反抗的な態度をとったの?


男児の心にふれないと、ただ、脅かして、言うことをきかせても、後々もっと大きな問題になると思うのです。


たしかに先生たちは、毎日とても忙しくて、子どもたちの、個々の背景や家庭の問題に目を向ける時間がないのかもしれないけれど、そのことが一番問題なのではないですか?


教師はただ、勉強を教えるだけでよいのですか?問題行動をする子は、どなりつけ、脅し、殴って言うことをきかせて、とりあえずその場だけおとなしくさせておけばよいのですか?(たぶん、そうなんでしょうね。)


「言ってもわからない子どもには、手を上げるのも当然だ」という考え、しょっちゅう耳にして、もう、イヤになります。


誰だって、理由もなく、荒々しい行為はしませんよ。


大人だって、例えば、夫婦喧嘩したときには、なんとなくイライラして、普通だったら、寛大なところが、その日は妙に腹が立ってしまった、ということ、あるじゃないですか。


仕事上でうまくいかないことがあって、家に帰ってから、夫や妻、子どもに当たってしまった、ということ、ありませんか?


「子どもだから言ってもわからない」、「子どもだから力で押さえつけて言うことをきかせてもよい」なんて、そんなこと、ないですよ。子どもの言動にも、ちゃんと、理由や原因があるはずです。そこを見ないでどうするの?


新聞報道だけではわからないですが、とにかく、体格も倍以上大きな教師が、小学二年生の胸ぐらをつかんで壁に押しあてて怒鳴りつけるって、それは、教師の資格がないと思います。


そういうと、必ず、勝ち誇ったように「親のしつけができてないくせに、教師を訴えるなんて、親のほうがモンスターペアレントだ」という人がいるのですが、どういう親なのかは、別問題です。

それに、こういうときに使われる「しつけ」ということば、どういう意味なんでしょう。「人を蹴ってはいけません」と教えることが「しつけ」ですか?よくないことは、たいていの人がわかっていることでしょう。わかっててもやってしまった、その、心にふれないと、根本は解決しないのです。


もし、子どもの情緒を不安定にさせるような親なら、それはそれで別の対処が必要です。教師が子どもを怖がらせて指導してもよいかどうかとは、全く別の問題です。


それにしても、あちこちのブログ、サイトでみかけるのですが、このような話題がでると、「子どもは厳しくしつけるべし」「子どもは動物と同じ。たたいてしつけるべし」という人が、生き生きとコメントしてくるんですよね。


最初は「またか」と思って、ゲンナリだったけれど、最近は、「ああ、この人たちも不幸せなんだな〜」と痛々しくなってきます。ものすごく、何かを憎んでいるような、何かに腹をたてているような感じなんです。とにかく「子どもを殴りたい!」という雰囲気が伝わってくるのです。自己肯定感がないんですね。


あの記事を読んで以来、ずっと気になっていて、書きたかったので、今、書きながら、ちょっと感情的になったかな、私。


4月28日11時30分配信 読売新聞

 熊本県本渡市(現・天草市)の市立小学校で2002年、男性の臨時教師が小学2年男児(当時)の胸元をつかんで壁に押し当ててしかった行為が、体罰にあたるかどうかが争われた訴訟の上告審判決が28日、最高裁第3小法廷であった。

 近藤崇晴裁判長は「行為は教育的指導の範囲を逸脱しておらず、体罰ではない」と述べ、体罰を認定して市に賠償を命じた1、2審判決を破棄し、原告の男児の請求を棄却した。

 学校教育法は教師の体罰を禁じているが、教師の具体的な行為が体罰に該当するかどうかを最高裁が判断した民事訴訟は初めて。

 判決によると、教師は02年11月、校内の廊下で悪ふざけをしていた男児を注意したところ、尻をけられたため、男児の洋服の胸元を右手でつかんで壁に押し当て、「もう、すんなよ」と大声でしかった。男児はその後、夜中に泣き叫ぶようになり、食欲も低下した。

 判決は「悪ふざけしないよう指導するためで、罰として苦痛を与えるためではなかった」と認定。原告側は上告審で「恐怖心を与えるだけだった」と主張したが、判決は「教師は立腹して行為を行い、やや穏当を欠いたが、目的や内容、継続時間から判断すれば違法性は認められない」と述べた。

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2009年2月15日 (日)

天才の育て方

日曜日の朝日新聞に、けっこう長く続いている、『天才の育て方』というコラムがあります。

有名人の親に、どのように育てたのかを取材したもので、4回続きのコラムです。共感するものもあれば、苦々しく思うものもありですが、興味があるので毎回読んでいます。


今回は、クラシックギタリスト村治佳織さんの『育て方』ということで、ギタリストの村治昇さんが三回目の登場です。前回までは、まだ佳織さんが小学校に上がる前までの指導法についてで、まず遊び感覚で、ご褒美も用意しつつ、楽しくレッスンしていたということが書かれていました。

今日は、小学校に入ってからの様子です。


【毎朝、「今日の練習メニュー」を書いて出かける。学校から戻った佳織は、そのメニューを自分でこなす約束だった。
音階練習○回、アルペジオ奏法の練習○回、曲○回・・・。

友だちと遊んでしまい、練習をさぼった翌朝。
「なまけ虫がお尻から入ったな」
昇は平手で思い切りお尻をたたく。 ー略ー

「練習をしなくちゃ上手になれないことや、約束をやぶっちゃいけないことが、わかり始めた年齢。だからこそきつくしかりました。自尊心を傷つけないために、本人ではなく虫のせいにして」

勝ち気な性格を逆手にとって、こんな方法をしたこともある。

「北海道にマリちゃんというギターのうまい子がいる。佳織より3ページ前を練習しているんだって」と昇がいう。すると佳織は、マリちゃんに負けまいと猛練習する。もちろん「マリちゃん」なんていない。でも、佳織は本気で張り合った。】


こういうふうにして培われてきた力って、音楽に、どのように反映されるんだろう・・・。
小さい頃から「天才」と呼ばれてきた人の多くは、こんなふうな家庭教育なのかなあ。
そうえいば、五嶋みどりさんのお母さんも、スパルタだったと聞いたことがあります。


私、昨年秋頃、ヴァイオリニスト天満敦子さんのコンサートに行って、すっかりファンになってしまいました。その後、CDを買ったり、本を読んだりしましたが、天満さんのお母さんは、スパルタとはほど遠いかたで、とても面白かったです。

天満さんが小学六年生のとき、NHKの「ヴァイオリンのおけいこ」という番組にでて、半年間その番組のなかで、超一流の先生にレッスンを受けられることになったそうです。その収録のときの話しが印象的でした。


【収録が始まってびっくりしたのは、他の子供たちはヴァイオリンのケースもお母さんが持つの。それからケースを開けて弓の毛を張って、松脂を塗って、ー略ー  準備するのは全部お母さんなの。楽譜を開いて「今日はここよ」なんてやってる。それを見て私たち親子はまたビックリした。だってママがヴァイオリンを持ったことなんてなかったし、それは死ぬまでなかった。

それで先生のご注意をお母様方が自分の譜面に書き込むわけ。それで今度はママが慌てたの。かわいそうに他のお母様方の真似をしたんだけど、音符をよめないから、ママが見ているとこと皆が見ているところは全然違う。 ー略ー
それで、そういうことをするのは、一回でやめちゃった。では何をしたかというと編み物をよくやってた。 ー略ー

それでママは「ヴァイオリンのおけいこ」に私がでていた半年の間に、スーツを編んだの。グリーンのこま編みのすごくいいスーツをスタジオの隅っこに座って六ヶ月かけて編んだ。 ー略ー
慣れないことはさっさと止めて、スーツを編んじゃったあの時、ちょっとうちのママ、誇らしかったな。】


この話しは、コンサートに行ったあとに読んだのですが、こういう家庭で育った伸びやかさが音楽に現れているような気がしました。そして、ヴァイオリンが大好き!演奏できて幸せ!、という空気が伝わってくるのです。


『天才の育て方』の話しに戻りますが、棋士、羽生善治さんのお母さんの話しが好きでした。

羽生さんは中学三年でプロになったのですが、家族が、「せめて高校くらいは」とすすめて都立高校に入学しました。そのことを、お母さんは後悔しているそうです。

【義治には、好きなことを好きなだけやらしてあげるべきだったかもしれません。本人はずっと早い段階から、将棋一本、と決めていたわけですから」

いいお母さんだなあ。

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2008年8月16日 (土)

どうして本音が言えないの?

7月19日の『道徳の時間ですよ!』にも少し書きましたが、大分県教員採用&教員昇進試験贈賄事件の話題です。こちらは地元なので新聞でも連日大きく取りあげられているけれど、関西、関東では、どの程度の記事になっているでしょう。


昇進試験贈賄事件では、三人の校長、教頭が良心の呵責に耐えかねて、自ら警察に出向きました。そのうちの一人のかたが、朝日新聞の取材を受けて語ったことが記事にでていました。


話しをしたのは贈賄で書類送検された小学校教頭。4年連続で教頭試験に不合格。合格者との答え合わせでは自分のほうが高得点だったこともあった。そのうち「コネのない人間がまともにやっていてもだめなんじゃないか」と思うようになり、そんなとき、知り合いに口利きを示唆され、50万円の商品券を渡してしまう。以下、記事の抜粋です。


【教員採用を巡る汚職事件が明るみにでた今年6月、事件を説明する全校集会の司会を任された。「たまらなく憂うつだった」。教員向けの研修もした。「偉そうに説明しながら、自分が不正を隠していることが耐えられなかった。と振り返る。

「ばれるのでは」。眠れない日々が続いた。良心の呵責に耐えきれずに7月8日、佐伯署に出向いた。

「先生は誘惑に負けた悪い人間です」。

前日、児童らへの書き置きを職員室の机に残していた。その後は年休を取り続けている。児童や保護者に経緯を説明してあやまりたいが、「混乱が起きる」と周囲に止められているという。

一方でこう話した。「正当化する気はないが、私たちのケースは氷山の一角。県教育界全体の体質を改めなければ、同じことが繰り返される」】


「混乱が起きる」として、本人の謝罪を止めている「周囲」って誰なんでしょう?

どんな「混乱」が起きるんでしょうか?


こんなことばっかりしてるから、いつまでたっても隠蔽体質は変わらないんですね。

このかたが児童に宛てた手紙も読まれないまま、何の説明もされないまま、なのだそうです。


私がこの学校の生徒だっとして、教頭先生がみんなの前で涙を流して自分のしたことを話し、謝ったら、多分そのことはずっと忘れられないだろうし、小学生ながらに、社会のことや、どんな人間になりたいか、自分だったらどうするか、など、いろいろ考えると思います。


もし、きのくにの大人が、何か、罪になるようなことをしたとしたら、絶対学校からきちんとした説明があると思います。

夜更かし会での会話からも、「そこまで話してくれるんですか〜?」と思うことが多々あり、本音での会話がとても気持ちよいです。


冒頭の教頭さんがいた学校、どうしてホントのことを述べてはいけなのでしょう。


私も自分のブログでぼやいていないで、教育委員会に電話でもして、意見を述べるべきなのだろうか、と考えています。


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2008年7月19日 (土)

道徳の時間ですよ!?

このところ毎日のように、大分県教員汚職の記事がでています。

これに関する談話で、

「一番の被害者は子どもたち。いったいどう説明すればよいのか・・・」という現場の声が載っていました。


一番の被害者は、合格点だったのに落とされた受験者だと思いますが、それはさておき、

「どう説明すればよいのか・・・」

って、その通り説明すればいいんじゃないんでしょうか?子どもをバカにするのもほどがある!(と、ちょっと怒っています。)


『心のノート』を使って、建前ときれいごとだらけの道徳の授業をするくらいなら、事件の経緯を、詳しく説明したらいいじゃないですか。


「自分の子どもをどうしても教師にならせたくて、有力者に頼み込んで、お金を払った人と、その人の言うことを聞いて、点数が足りないのに合格させた人がいて、そういう人が逮捕されました。みなさんはどう思いますか?私は、こういうずるいことをするのは、とても恥ずかしいことだと思います。」


と、そのままを伝えることに、何を躊躇する必要があるのか、私には理解できません。


「道徳」を授業で教えるということに、私は賛成できませんが、でも、どうしてもしたいなら、今回の事件こそ、絶好の、「道徳」の題材になると思うんですが・・・。


こういうことを子どもには隠しておいて、

【むねを はって いこう。 いちばん すてきな あなたで いよう。 せなかを ぴんと のばして すすんで いこう。 もっと すてきな あなたを みつけよう】 (心のノートより)

こんな文章読ませるのですか?

こんな建前教育で育てられる子どもたちが、気の毒です。

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2008年6月 4日 (水)

気になる人

作家の田中慎弥さん。

今年4月に川端賞を、5月に三島賞を受賞。両賞の同時受賞は史上初。

ということで、最近よく新聞に登場なさっているので、ご覧になったかたも多いと思います。数週間前は、朝日新聞の【ひと】の欄で取りあげられていました。

今日は文化面に文章を書いておられます。大変ユニークな文章(表現も内容も)で、全部ここに紹介したいくらいですが、長過ぎるので、一部転載します。


この文章のタイトルが、また、すごいんです。


夢も希望もないから


【高校を卒業して以降、就職どころかアルバイトさえしたことがなく、大学、専門学校、予備校などへ通いもせず、つまり何もしていないと呼ぶ以外にない状態が長く続いた。 ー略ー


なぜそういう生活を送るようになったのか、説明するのは難しい。何かをしたのであればその動機や端緒を語ることが出来るが、何もしていないのだから説明のしようがない。働きたくなかった、働かなかった、それだけだ。

では動機や端緒ではなく、どんな精神状態で生活していたのか、を説明することは可能だろうか。そういう生活に突入した場合に感じる筈の焦りや不安といったものは、いっさい覚えたことがない。なんとなく、この先どうなるんだろうか、とぼんやり想像することはあっても、明日には雨が降るんだろうか、という程度の感覚であって、とても危機感などとは呼べない。 ー略ー


何もしていないというのは外から見てのことであって、本を読んだりノートに文章を書いたりはしていた。だがそれは、将来のためというより、ただ好きだったからだし、ひまだったからだ。友人は一人もいないし出かけなくてはならない用事もない。そしてそういう生活を送ることを、何かしている、とはやはり言えないだろうから、何もしていないと言うしか、ない。

ー略ー

デビューしたことを、世の中と関わりを持てるようになった、前進だ、成長だ、などとも全く思わない。人と話しをする時間が増えるほど、デビュー前よりももっと狭くて深いところへ、心地よく沈んでゆけるという気分になる。いまの方が、ずっとずっと世の中と隔たっていると感じる。言葉を書き連ねてゆくことは自分にとって、世の中とか他人と直に向き合うのをさけるための手段なのだろうか。


主義主張や知識を持ち合わせていないので、外から見て何もしていない生活を送っている人たちに言いたいこと、言えることなどあまりない。夢も希望もないから、苦労するのがいやだから小説を書いています、おすすめできる生き方ではありません、働くなり勉強するなりした方がいいと思います、という程度か。


ただ、十数年前の私は、親から金をむしり取って映画を観にゆく電車の中で、自分と同い年くらいの大学生風の人たちやサラリーマンなどに囲まれ、こういうちゃんとした生き方をしないといけないんだろうな、と思う裏側で、自分の読書歴を思い返し、この電車に乗っている人間の中で「源氏物語」の原文を二回通読したのはたぶん自分だけだろうな、と、不遜で、無恥で、無礼で、しかしこの世で自分のとってだけは多少の意味がないわけでもないことを思い巡らせて、卑屈に安心していた、ということを、最後に書いておく。】


淡々としていて、なんとなく潔い文章で、今日、何度も読みたくなりました。
今で言えば、ニート、の生活、と言えるのでしょうけれど、不思議と自己肯定感が漂っていませんか?


早くにお父さんをなくされ、長くお母さんと二人暮らしだそうです。

お母さんは息子さんに、どんな接しかたをされてきたのかなあ、と、とても気になります。

作品も読んでみたいなあ。
今、とっても、気になる人、です。

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2008年6月 1日 (日)

なんとかなる

*「いろいろ考えてしまって・・・」のタイトルだけ変更したものです。文章は変えていません。タイトルが長くなると、「最近のコメント」の項で一行よけいに使うので、欄がもったいないから変えただけです。深い意味はありません。


すっかり更新さぼってましたのに、さきほどアクセス状況見てみましたら、まあ、たくさんのかたが訪れてくださってまして、ありがとうございます。

なんだかんだと、あっという間に一日が終わってしまって、ずるずると日々が過ぎてしまっておりました。

ショッキングな事件も次々に起こり、いろいろ考えてしまっていました。


有名人(といっても、私はそのかたを知りませんでしたが)の自殺、というのは、マスコミでも大きく取りあげれて、私もずっと頭から離れません。

本人にしかわかり得ないことが、きっとあるのでしょう。

私はいつの頃からか「自殺」ということを考えはじめ、小学校のときには遺書を書くことで、気持ちを落ち着けているようなところがありました。そして、「もし私が自殺しても、きっと周りの人は、“勉強もできて、明るかったあの子が自殺するなんて・・・”って言うだろうな」なんて思っていました。


ナイフを手首にあてたこともあったけれど、今思えばあまり本気ではなかったかもしれません。

ただ、首を絞めて、ふ〜っと気が遠くなったときは、後から正気になって、「やばかった!あのまま締めてたら死んでたな・・・」と、少し焦りました。


今は、ちょこちょこと、いろんなことはあるけれど、基本的に毎日幸せで、楽しくて、「ああ、死ななくてよかった〜」と思います。

もし、今、自殺を考えている人がいたら、「ちょっと待って!!」と言いたいです。(自殺を考えてるような人は、こんなブログ、読んでないか・・・。)


つらいときは、その状況がず〜っと続くような気がするし、大恥をかいたときは、みんなが自分のことをウワサして、笑っているような気がするけど、ほんとはそんなことないんです。

しばらくじっとしてれば、状況も人の見方も変わってくるし、「なんとかなる」ってこと、やっぱり、多いと思う。


夫の父親は、「なんとかなる」っていう言葉が嫌いで、「なんとかなるんじゃない、なんとかするんだろう!」と、よく口にしていたそうです。

でも、「なんとかなる」って思って生きていたほうが、楽しく生きられるような気がする。


さてさて、気分を変えて、話しを息子のことに移します。

Fは、うまくいかなかったリハーサルから学び、本番までの5日間でさらに追い上げ、24日のサロンコンサートは、なんとか、今持てる力を出し切ったようです。

リハーサルのDVDも撮ってくれたのですが、それは、見せてくれないのです。本番のは見せてくれました。

「あんたも見てないの?リハーサルのDVD。」と聞いたら、本人はちゃんと見て、そのうえで、失敗したところ、よくないところを本番に向けて修正したそうです。

こういうところが、プロ根性、と思います。


Nは、バスケに燃えつつも、メンバー全員足やら手を痛め、なかなか練習ができない模様。

「俺たち呪われてるかも・・・」といいながらも、7月の大会出場は諦めていない様子。がんばれ〜!!


きの高生活は充実しているようで、毎朝携帯で目覚ましをかけ、朝ご飯をかき込んで、授業へダッシュ!

Nがスタッフから聞いたところによると、「きの高生は6分の5大人扱い」だそうで、朝、寮母さんが起こしてくれる、なんてことはありません。朝当番の子が、「朝食できたで〜」と、ドアをドンドンと叩いて回り、それで起きなければ、それっきり、なんだそうです。

私なんて、高校の頃、学校嫌いで全然起きられなかったのですが、母が階段の下から、「朝よ〜!起きなさ〜い!」と5回も6回も起こしてくれて、やっと登校してました。


きの高生、大人扱いされれば、自立もしますよね。

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2008年3月 2日 (日)

今日の朝日新聞

今日の朝日新聞朝刊の教育欄『学校探検隊』に、ひらおだい四季の丘小学校が載っていま〜す!

私、これからでかけないといけないので、一回読んだだけですが、ちゃんとした記事だと思います。吉野さん、よかったね〜。反響多いかもね。

あと、フィンランドの教育のことも載っています。

これ、九州版限定でなく、全国版ですよね?朝日でないかたは、コンビニかどこかで買ってね!

では、とりいそぎ。

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2008年2月22日 (金)

忘れないうちに

【あなたが虚しく過ごした きょう という日は  
      きのう 死んでいったものが  
          あれほど生きたいと願った あした】


今日の朝日新聞29面『ハンディをこえて』という記事にでていたことばで、白血病の息子と父親を描いた韓国の小説「カシコギ」(サンマーク出版)の一節だそうです。


新藤兼人さんの映画の話しもまだ書いていませんが、とても心に残る言葉だったので、忘れないうちに書き留めておこうと思いました。

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2008年1月27日 (日)

殺伐としそうだな

東京杉並区の和田中学で、夜間や土曜日に塾講師が授業をする、というニュース、しょっちゅう新聞でとりあげられていますね。

ネット情報を含め、いくつか記事を読みましたが、主に以下の二点に関して論じられていると思いました。

・公立中学での教育の機会均等に反する
・公立学校の教育環境が貧弱である

私はそんなことより、「なんでそんなに勉強ばっかりしなくちゃならないの?人間として、他にもっと大事なことがあるでしょう!」と言いたいです。

朝日新聞の社説には、「家庭の事情で、この塾にも行けないう子が出るとすれば、なんとかしなければならない。」と書いてあったけど、私はこっちから願い下げです。こういう、「行けないのが不幸」っていう発想が、どうかしてると思う。


だって、学校で朝から夕方まで授業受けて、さらに夜まで?休みの日まで?なんだか気の毒です。こんな生活してて、人に優しく、ほがらかに、笑顔で過ごすことができるんだろうか。

それに、「おちこぼれ対策の補習をする」とか「できる子をさらに伸ばす」とか、そういう発想は、子どもたちをさらに序列化するし、子どもたち自身が、他者を、「自分より上か下か」という価値観で見るようにさせてしまうと思います。すご〜く危険です。イジメが減るわけないですよ。

先日の新聞の投書欄に、ある塾の講師をしている人の文章が載っていました。中学生の集中講座をしたとき、休み時間になってもトイレに行く以外、みんな机に向かっている、周囲と話しもしない。授業が終わってからも、みんな口もきかず、ばらばらに帰っていく様子を見て、ぞっとした、という話しでした。目に見えるようですね。


そもそも、朝から晩までやらないと身に付かない「学力」って、ほんとうに必要なんでしょうか?

いつまでも子どもっぽい中高生。何をするのも人とつるんでないと不安な大学生。自分の意見が言えない若者。「学力」よりもっと学ぶことがあるでしょう?と言いたくなります。

以前、中学三年生の子が、歯医者の予約時間になってもこなくて、電話したら、忘れていたとのこと。それで急いで来てもらったのですが、その子の言ったことは、「もうすぐ受験だったから(歯医者の予約を忘れた)」だったのです。「ごめんなさい」の一言もないことに、びっくりしました。

びっくりすると同時に、昔の自分を見る思いがしました。「受験」はなによりも大切、という気持ちでしたから。


受験といえば、我が家のNも中三です。本人は夏頃までいろいろ悩み、考えたようですが、きのくに国際高等専修学校(きの高)に行くことに決めました。(ちゃんと試験を受け、合格通知をいただきました。)この辺りのいきさつは、ちゃんと本人が4月に高専の入学を祝う会を終えてから、ぼちぼち書こうと思います。


同級生たちは、同じくきの高に行くと決めた子、留学する子、○○になりたいから、と、その夢に近づく高校を受験する子、まだ悩み中、といろいろです。多くは自分のやりたいこと、夢、その学校が魅力的だから、ということで、進路を選んでいきます。

でも、希に、「少しでも偏差値の高い学校に行きたいから」、という理由で高校選びをしている家庭もあるようです。きのくにまできていならがその発想、とても残念です。子ども自身がそんなことを言うというのは、結局親が家庭でそういう価値観の会話をしているのでしょう。


文部科学省は「ゆとり教育」は失敗だったといいだし、学校現場も塾まで使って「学力アップ」をうたい、親も、「もっと学力を!」と狂騒する。子ども社会はますます殺伐としそうです。


せめて、きのくにを知った人たちは、社会の流れに乗せられず、人生で何がほんとうに大切か、何が子どもを幸福にするのかを、十分に理解し、周りにも広げていってほしいものだと思います。

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2008年1月 8日 (火)

「学力」の質

1月7日付け朝日新聞の社説、なかなかよい内容でした。一部抜粋します。

【 ー略ー
学力低下は、PISA調査で勉強への意欲が際だって低いことと分ちがたく結びついている。単なる知識の量で成績や入試の合否が決まってしまう。そんな貧しい教育の姿に、学力危機の核心があるのではないだろうか。

教室で学んでいることが現実の生活に、今後の人生につながっていく。そして、何よりも考えることが楽しいという手応えをかんじさせることができるかどうか。そこが分かれ道になるだろう。

では、どうするか。
学力の質を転換させることである。

ー略ー

社会に出たら、教室で習った公式では解けない問題ばかりである。正解がわからない問いと向き合う力をつけることこそが、未来を拓く教育の役割だろう。
希望の苗木を、幹太く育てたい。】


よい内容だけれど、これって、ず〜っと前から堀さんが主張し、実践してきたことですよね。

堀さんは、きのくにで言うところの「考える力」とは、ということで、下記のような話しをしてくれたことがあります。
 *講演会のときのメモ書きをまとめました。

・まず、問題に敏感になること。「なんでだろう?」「どうして?」と思うこと。
・「なぜ?」と思ったら、それをよく見てみる、観察してみる。
・そして「じゃあ、考えられる原因はこれかな?」と仮説をたてる。
・その仮説を試してみる。
・たてた仮説でうまくいかなかったら、もう一度観察して考える。再考→失敗→再考、を繰り返す。

きのくにの子どもたちは、プロジェクトで常にこの繰り返しを実践していますから、「正解がわからない問いと向き合う力」がしっかりとついています。

先日紹介した気球作りなども、まさに、「疑問、観察、仮説、実験、再考」の要素がいっぱいです。しかも、自分たちが決めた、自分たちのやりたい活動を通して学べるのです。

Nを見ていても、考えることがとても楽しそうな様子です。気球作りの話しを聞いたときも、私が「大変そう〜」と思うところが、「困難を受けてたつ!」という感じなのです。

そのうえ、みんなで話し合って、友達と心を通わせながら学んでいますので、情緒が安定していて、とてもほがらかです。

生徒全員が教師と黒板のほうを向いて、「ここは試験にでるぞ〜」と言われながらとにかく覚えることに必死になり、順位付けまでされるながら「お勉強」していたのでは、なかなかこうはならないだろうな、と思います。

暗記中心の偏差値重視教育が、どれだけ多くの子どもたちの「真の学力」と「考える力」を奪っていることだろう、と暗澹たる気持ちになります。

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2007年10月 9日 (火)

報道の問題

数年前、新聞社に取材を受けたことがあります。教育特集の連載記事で、きのくに子どもの村学園に子どもを入れている親の話しを載せたい、ということでした。

夫も私も、そりゃあ、張り切りましたよ〜。我が家が新聞にでるからっていうのじゃなくて、大好きなきのくにのことを思いっきり話せるから。たくさんの人たちに読んでもらえる新聞だから、きのくにのよさがちゃんと伝わるように話しをしなくちゃ、と思って。


仕事が終わる18時過ぎ、女性記者さんが来てくれました。すでにきのくにでの取材も済ませた後と言うことで、話しも通じやすく、気持ちよく話しができました。


で、数ヶ月後、出来上がった記事を見て、愕然としました。

話したことと、全然ちがう〜!!

【息子は内気で泣き虫で、地元の小学校になじめなかったので、きのくにに行ったら、自然の中でのびのびと元気になった。】

こんなストーリーになってるんです。

記者さんに、「お話したこととだいぶ違うようですが・・・」と言いましたら、「はい、すみません、デスクに書き直されて・・・」と涙ぐんでしまいました。

どうも、新聞社としては、「不登校の子が“自然に恵まれた山の中の学校”に行って、たくましく成長した」というストーリーが最初にあったらしく、それにあわせて文章をつくっているわけなのですね。

もう、がっくりでした。

きのくにのスタッフがどれだけ細やかに子どもたちを見てくださっているか、管理しない教育が、どれだけ子どもたちを成長させるか、などなど、体験をふまえていっぱいお話ししたのになあ。


この経験があってから、新聞、雑誌の報道に懐疑的になりました。テレビは持ってないから見ないけれど、きっと、編集によって、いくらでも世論をつくることができるんだろうな、と思います。


そんなふうに思っていたのに、最近問題になっている、光市母子殺人事件の裁判のお話、私も、新聞を読んで、「こんな弁護するなんて、いったいどういう人間なんだ」と、嫌悪感をもよおしていました。

でも、その弁護士さんが書いているブログを読む機会があり、ああ、やはり新聞、雑誌の報道だけでは、伝わってないこともたくさんあるのだなあ、と改めて感じた次第です。


まだまだ知らないことはたくさんです。決めつけてはいけないと、自戒した次第です。

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2007年9月27日 (木)

子どものほうがわかってるのに

9月23日朝日新聞朝刊 『こども 脱・いじめ』の記事で、読者からの投書がまとめて載せてありました。特に印象的だったもの、二つから、少し抜粋します。


〈中学三年生女子〉
【いじめは、ちょっとしたやきもちやストレス解消から始めるんだと思う。いじめられた人がいじめる側になるのはよくあること。自分もいじめたことがある。
学校以外の塾や習い事の教室ではいじめがあまりない。学校がなくなればましになると思う。】


〈16歳女子〉
【「いじめるとスカッとする」という子どもがいるのは、彼らが日頃から相当嫌なものをため続けている証拠です。そのたまったものが変形して現れた姿が、いじめなのだと思います。

今の社会では、子どもは自分の感情を「ないこと」にしています。表すことを許されない「怒り」「悲しい」といった感情を、いじめることでやっと出しているのです。

「いじめたくなる気持ち」は持ってもいい。それを認めれば、子どもの心のもやもや感が軽減でき、いじめが減るかもしれない。「いじめてやりたい」と思うことと、実際にいじめることは違うから。】


どちらの意見も、問題の本質をついていると思います。


最初の、「学校がなくなればましになると思う」という意見は、以前、内藤朝雄氏も同じことをおっしゃっていましたし、ここでも取りあげました。私も、今の体制の学校と教育が存在し続ける限り、イジメはなくならないと思います。


だいたい、親だって、保護者会で気の合わない人がいたり、嫌な思いをすることがあるでしょう?それでも、なんとかやっていけるのは、一日中保護者会のメンバーと同じ部屋で過ごす、という必要がないからです。気の合わない人とは、距離を置くことができます。


今日会った友人が、「もう保護者会や子ども会で、疲れる〜。でも、大人は、そのときだけ我慢すればいいからましだよね。子どもたちはずっと一緒だもんね。」と言っていました。


きのくに子どもの村学園で、深刻ないじめがないのは、まず第一に、子どもたちが抑圧されていなくて、自己肯定感がある、ということが一番大きいと思います。そのうえで、クラス単位で動くプロジェクト活動あり、全然別のメンバーとのチョイスの活動があり、全校生が集まるミーティングあり、と、子どもの集まりに、動きがあるというのも影響しているでしょう。

そもそも、多くの時間をすごす、プロジェクトのメンバーが異年齢の集まりですので、みんな違って当たり前、という空気があります。


最近起こった、高校三年生が恐喝、イジメを受けて自殺した事件について、家族で話していたとき、Nに、「きのくににヒドいイジメがないのは、なんでだと思う?」と聞いてみたところ、

「ミーティングがあるっていうのが、大きいかな。みんの問題になるから。」と言っていました。

ミーティングでは、いじめたとされる子が叱られたり、責められたりするわけではありません。双方の言い分をよく聞いて、周りの子も、それを自分の問題としてとらえます。そして、どうすれば快適に過ごせるかを、小さい子も大きい子も、みんな一緒に考えるのです。


冒頭二つ目の投書にある、 【「いじめたくなる気持ち」は持ってもいい。それを認めれば、子どもの心のもやもや感が軽減でき、いじめが減るかもしれない。」】は、的を射ていると思います。

イジメが発覚するたびに、「命の大切さを伝えたい」とか「道徳教育をもっとしなければ」と、多くの教育者が言うけれど、そんなことしても、無駄ってことは、子どもはよ〜くわかってるのにね・・・。

「いじめたい気持ち」も、怒りも、イライラも、全部「よくないこと」として封じ込めるから、ますます陰湿に、上手に(?)なっていくのにね・・・。


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2007年7月 9日 (月)

つり銭を間違えなければ

本日の朝日新聞4面、【きょうの予習 参院選特集ー教育改革ー】の、堀田力氏(さわやか福祉財団理事長)が、【多様な受け皿こそ必要】という見出しで、とってもよい話しをされていました。

朝日をとっていらっしゃるかたは、ぜひ、お読みください。とってないかたも、ぜひ。


少しだけ転載します。


【ー略ー
このように「自分なりの生き方をして、物質よりは心の満足を」と考えているいまの多くの子供たちを、旧態依然とした偏差値教育に閉じ込めたら、どうなるか。精神がゆがむに決まっている。

小学校も低学年から荒れる学級が生じ、以降も無気力、引きこもりの子供たちが増えて、非行の質も残虐になってきているのは、大人たちの押し付けや締めつけに、彼らがあげる悲鳴である。

それなのに、それに応えようとした「ゆとり教育」が一歩踏み出そうとしたとたん、待ったをかけたのは、「そんなことではウチの子は有名校に入れなくなる」と不安がった保護者たちと、自分たちの「成功物語」を否定された官僚、政治家、財界人だった。そして、そのような声に乗り、時代の変化に極めて鈍感に、子らの意欲をそごうとしているのが安倍内閣の進める教育改革といえる。

ー略ー

ことあるごとに「いまの子は基礎学力が落ちている」と強調する人たちに言いたい。一律の要求が子供の意欲を奪ったのである。すべての子供に要求する義務教育としては、つり銭を間違えないだけの算数の能力と、新聞の見出しの意味をおよそ理解できる国語力で足りるだろう。あとの能力は、その子の希望で伸ばしたいだけ伸ばせばよい。みんなの自立の意欲と共助の精神を育てることが大切だ。】


教育バウチャー制度とか学校選択制とか、話題になっていますが、「どれだけ知識を詰め込んで、有名校にたくさん合格させるか」という基準しかないなら、選べる意味がないと思います。いくら学校がそれぞれ工夫して、親と子に選ばれるような努力をしても、その価値基準が「学力アップ」だけでは、どうしようもないです。


堀田氏は、【教育現場に競争を持ち込むのもいい。だが、それなら学校同士を「多様性」で競わせるべきである。】とおっしゃっています。

その通りだと思います。


結局、親が価値観を変えないと、教育は変わらないってことですね。

【すべての子供に要求する義務教育としては、つり銭を間違えないだけの算数の能力と、新聞の見出しの意味をおよそ理解できる国語力で足りるだろう。】

こういうふうには、どうしても思えない親が多すぎる!


Nの愛読書のシャーロック・ホームズ第一巻の裏表紙の紹介文に、こんな文章が書いてあります。

【文学の知識ー皆無、哲学の知識ー皆無。毒物に通暁し、古今の犯罪を知悉し、ヴァイオリンを匠に奏する特異な人物シャーロック・ホームズが初めて世に出た。】


そう、シャーロック・ホームズは名探偵だけれど、知識にものすごい偏りがある、という設定なのです。

ホームズが地動説や太陽系組織を全く知らないことを発見したとき、ワトスンはものすごく驚きます。それに対して、ホームズは、こんなふうに言うのです。

「僕にとってそんなものがなんになるものか!君は地球が太陽の周囲を回っているというが、たとえ地球が月の周囲を回転しているとしても、そんなことで僕の生活や僕の仕事に、なんの変化もおこらないんだからね。」


これを読んで、クスッと笑える家庭は、幸せだよね。

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2007年6月 3日 (日)

人はいつから大人になるのか

今日の朝日新聞に、選挙権を18歳以上に引き下げることに賛成か反対か、の記事がでていまして(23面)、そのタイトルが【人はいつから大人になるのか】でした。

F(16歳)がその記事を読んでいまして、「俺はもう選挙権あってもいいな」と言っていました。

私自身は、大変恥ずかしいのですが、30歳くらいまで、選挙に行ったことがありませんでした。社会のことに、ほんとうに無関心だったのです。


で、【人はいつから大人になるのか】なんですが、最近注目している、本田由紀氏(東京大学準教授)の回答は
【自分の周囲の情勢を、多面的・総合的に把握し、「適応」と「抵抗」を戦略的かつ柔軟に使い分けられるようになること。】でした。

高度だわ。この基準でいくと、20歳以上の日本人で「大人」って、何パーセントくらいになるのかしら・・・。

伊藤信宏氏(大阪大準教授):【異なる意見と居心地は悪いかもしれないが、共存できること。】

古川日出男氏(作家):【出身地も生年月日も学歴も所属組織も書かずに、自分のプロフィールを400字以内にまとめられる。】

このお二人の回答、いかがですか?私は好きです。でも、異なる意見と共存できない30歳も、肩書き以外に自分を表現できない50歳も、たくさんいそうですね。私も怪しいものです。


で、投票権、私は18歳以上に引き下げてもいいと思うのですが、今のような詰め込み暗記教育も考え直してほしいものです。

教師の言ったことを丸暗記して、疑問を持つゆとりもない教育をしておいて、「さあ選挙権をやるから政治に参加しろ」というのは、危険です。


実際、私の住む町では、この4、5年の間に、5回以上選挙がありましたが、田舎ほど「しがらみ選挙」で、親戚の多いものが勝つ、という法則(?)さえあるほどです。また、自衛隊の駐屯地があるので、この組織票をとりこめるかどうかも、大きなポイントです。ここ1、2年は、少し様子も変わってきたようなところもありますが、結局、個々人の考えより、「組織」の力が大きいのです。


投票年齢をどうするか、ということと同時に、暗記教育から自分の頭でものを考えられる大人を育てる教育への転換をすることが急務だと思います。今はそこからますます遠のいていますね。


そして、18歳以上に引き下げるのであれば、候補者同士の討論会をしたり、演説会などをしたりして、候補者の人柄、政策が、有権者に明確に伝わるようにすべきと思います。名前の連呼だけの選挙戦、他国でもこんなことやってるんですか?


最後に、引き下げに賛成のたかのご意見で、共感するものがあったので、列記しておきます。


作家・石田衣良氏:【信じてまかせてみれば、きちんとした行動や反応をみせてくれるはず】

プロデューサー・残間里江子氏:【どんな世代でも駄目な人は駄目。ならば一刻も早く『現場』に立たせた方がよい】

作家・多田容子氏:【18歳で無知無関心なら20歳でも劇的な変化はない】

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2007年3月 8日 (木)

学ぶ意欲

暗〜いPC画面に向かっています。Fが「ますます目が悪くなるやろ」と心配そうに覗き込んできます。
ほんとにね、でも、今日中に書きたいし・・・。(あ、でも、日付が変わってしまった。)

毎日新聞の記事に【日本の小学生は中韓より「学ぶ意欲」低い】という記事がでていました。(最後に添付)


日本の子どもたちが、他国の子どもたちに比べて、「学ぶ意欲が低い」とか、「自己肯定感に乏しい」ということは、以前も本や新聞で読んだことがあります。

先日もブログで取り上げましたが、本田由紀氏が朝日新聞に、そのようなことを書かれていました。


今回の記事では東京大学の佐藤学氏が、

【「勉強をすれば、いい仕事に就ける」という関係が、低成長時代の今は崩れてしまった。】

と考察されていますが、そういう問題ではないと思うんですが・・・。


堀さんは、「授業時間数を増やす、というのではなく、授業の質を変えるべきだ」と主張しておられます。その通りですよね。学ぶ意欲が低いのは、教育や授業の質、中身が原因なのだと思います。


【もともと子どもは、好奇心のかたまりのような存在のはずだ。せっかちに大人が教えたり手伝ったりすると、激しく拒否する子どもも珍しくはない。それがいつの間にか、受験戦争や将来の心配を持ち出して脅さないと、自分からは学ぼうとしないようになる。

その理由の一つは、子どもにとって学び甲斐のないことを強制されているからであり、もうひとつは、抽象的な結果の記憶だけが大事にされ、探求のプロセスがおろそかにされているからだ。算数を例にとれば、実際的な生活や具体物から離れて、抽象的などうでもいい問題を与えられ、解き方(公式)を覚え、数字をあてはめて教師から○×をつけてもらう。

自分たちの誕生パーティーをするのでパウンドケーキを焼こうと思うが、材料がどれだけ必要かとか、それを3種類つくって8分の1ずつ分けるとすると、29人では何個ぶん焼かなくてはいけないか、などという問題に直面すれば、子どもたちは必死で頭をひねるだろう。

しかし、「周囲が120メートルの池があります。このまわりに8メートルおきに桜の木を植えるとしたら、苗木は何本いりますか」などというドリルに、いったいどれだけの子どもが、興奮したり胸を躍らせたりするだろうか。】

(『自由学校の設計』P.161より)


「この池のまわりに8メートルおきに木を植えるとしたら・・・」

ああ、こういう問題、たくさんやりました。何度もやりました。ちゃんと回答できたけど、ぜ〜んぜん面白くなかった。こういう教育のやり方をしていて、学ぶ意欲が旺盛になるとは、とても思えません。

私もきのくにに入って、小学生からやり直したいなあ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<学習意識調査>日本の小学生は中韓より「学ぶ意欲」低い
3月7日20時46分配信 毎日新聞

 日本の小学生は中国や韓国の小学生よりも「学ぶ意欲」が低い――。財団法人「日本青少年研究所」(千石保理事長、東京都新宿区)の調査で、学習を巡る子供の意識に日中韓で大きな差があることが分かった。近年、日本の子供たちの学力低下が取りざたされているが、中韓両国に比べ「学力」以前の「意欲」の低さが浮き彫りになった形だ。


 調査は昨年10〜11月、3カ国の首都に住む小学4〜6年生計5249人を対象に通学先の学校を通じて実施、全員から回答を得た。対象は東京1576人▽北京1553人▽ソウル2120人。


 目指す人間像の一つとして「勉強のできる子になりたいか」と質問したところ、「そう思う」と答えたのは東京が43.1%だったのに対し、北京78.2%▽ソウル78.1%といずれも7割を超えた。「将来のためにも、今がんばりたい」と考える小学生も、東京48.0%▽北京74.8%▽ソウル72.1%で、日本は将来の夢に向けた学ぶ意欲が低くなっている。


 また、「先生に好かれる子になりたい」と答えたのは、北京60.0%▽ソウル47.8%に対し、日本はわずか10.4%。教師への関心や尊敬の念も薄れているようだ。


 生活習慣では「テレビを見ながら食事をする」のは東京46.0%▽北京11.8%▽ソウル11.7%。「言われなくても宿題をする」と答えたのは北京が82.7%と最も多く、東京42.1%▽ソウル37.1%と続いた。【高山純二】


 ▽佐藤学・東京大教授(教育学)の話 高度経済成長期にはリンクしていた「勉強をすれば、いい仕事に就ける」という関係が、低成長時代の今は崩れてしまった。(学ぶ意欲の低下について)約10年前から「学びからの逃走」と指摘してきたが、それが小学校段階でも表れた調査結果と言える。また、大人への信頼や権威が崩れ、大人たちが子供のモデルになっていないため、目標を見失い、さまよっているのではないか。


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2007年1月29日 (月)

教育再生会議

教育再生会議、連日新聞に出ていますが、ゆとり教育の見直しとか、授業時間数を増やすとか、奉仕活動の義務化とか、なんでこんなばかばかしいアイデアしかでてこないんでしょう。

「子どもが幸福な人生を送るために」、という視点がほとんど感じられない。ただ、管理しやすいオリコウサンをつくりたいだけのように感じます。(でも実際は、オリコウサンどころか、ストレスでふくれあがって、いつもイライラした人間を作ってしまうのに・・・)


そんなことを思っていたら、本日の朝日新聞朝刊9面に、胸のすくような意見が載っていました。


『時流自論』というコラムで、本田由紀氏(東京大学教育社会学助教授)が書いています。


まず、再生会議の提言の二点に対する反論です。

一点目の「授業時間を増大させて学力向上をはかる」ということに関しては、ある研究グループの調査から、授業時間数と成績との間に関連は認められない、ということを述べています。

そして二点目、「学力低下」がほんとうか、ということに関しても、調査結果をもとに、【現在の体制のもとでも、「学力低下」が直線的に生じているわけではない。日本の児童生徒の学力は、国際的に見ても総じて非常に高い水準を維持している】との見解を述べています。


そして、さらに付け加えているのが、下記の部分です。


【様々な調査結果で日本の児童生徒の顕著な特徴として必ず見いだされるのは、勉強が「好きだ」「楽しい」と答える者や、将来の仕事と結びつけて勉強していると答える者の比率が際立って低いことである。日本の教育の最大の問題は、子どもが教育内容に生活や将来との関連性や意義を見いだし得ていないことなのだ。】


「日本の子どもたちは、好奇心や学ぶ意欲がないことが問題だ」と話した教育学者もいます。


全く同感です。問題はそこなんですよね。

多くの子どもたちは、テストでいい点をとるため、通知表の評価があがるため、受験のため、に勉強します。学校や親が「やれ」というからやっている。先生が休んで自習になったら、大喜びする子どもたちです。そんな状態で、さらに授業時間を増やして、効果があがるとでも思っているのでしょうか?


そして、きのくに子どもの村学園の教育こそ、その問題を解決しうるのです。

卒業生の進路も、小中のプロジェクトで取り組んだことをもとに選んでいる子が多い、というのを聞いたことがあります。

ある子は、中学で三年間、「動植物研究所」というプロジェクトに取り組み、高校も、その分野のところへ進みました。

小学校から物をつくることが好きだった子は、中学では「道具製作所」というプロジェクトに入り、現在は高等専門学校の電子制御工学科に進みました。

その子は卒業後、「きのくにで自分のしたいことを見つけ、それができる学校を自分で選ぶことができた」と書いています。


教育再生会議で膨大な時間を費やして、お粗末な提言をするくらいなら、一度メンバー全員で、きのくに子どもの村学園の研究でもなさったらいかがでしょうか?


*朝日新聞の【時流自論】に【column@asahi.com】と書いてあったので、【http://column@asahi.com】で記事が読めるのかな、と思ったら、なにも出てきませんでした。どなたか、ネット上でこの記事を読める方法をご存知でしたら教えてください。


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2006年11月15日 (水)

子どもの幸せのための教育

ここのところ、子どもの自殺やいじめの問題が新聞に出ない日はありません。今も、どこかで死にたくなっている子どもたちがいるんです。新聞に載っているのが自分の子だったら、と思うと、とても耐えられません。

子どもの事件を考えるとき、いつも思い出す文章があります。9年前の神戸児童殺傷事件の加害男性が2004年に仮退院するとの知らせを受け、被害者の1人である、山下彩花さんのお母さんが書かれた文章です。(2004年3月11日に朝日新聞に掲載されたものです。)

一部転載します。

【ー略ー
加害男性に対して私個人としては、「社会でもう一度生きてみたい」と男性が決心した以上、どんなに過酷な人生でも生き抜いてほしいと思っています。

私は決して犯罪者に寛容な被害者ではありません。また、決して罪を許したわけでもありませんが、彩花ならきっと、凶悪な犯行に及んだ彼が、それでもなお人間としての心を取り戻し、より善く生きようとすることを望んでいるように思えます。彩花のためにも、彼には絶望的な場所から蘇生してもらいたいのです。 ー略ー

子どもたちがかかわる事件が起こるたびに、子どもを取り巻く最大の環境である私たち大人が、今一度「自分は何のために生まれてきて、何のために生きているのか」を真剣に問い直さなければならないように感じます。

そして、行き詰まった死生観を立て直すことや、「子どもの幸せのための教育とは何か」を深く思索していくことが根本的な解決の方途ではないかという感を強めています。

これからは、「彼が更正した」ということだけに固執するのではなく、むしろ、つらい体験を使命に転換すべく、私自身が社会に深くかかわり、自分なりに社会に貢献することにエネルギーを注いでいきたいと思っています。】


以上は全体の三分の一くらいの抜粋です。全文を読むと、さらに深く深く考えさせられます。

何か事件が起こるたびに、学校教育関係者は決まり文句のように、「命の大切さを教えたい」と言いながら、点数評価や競争原理をさらに強めています。こういう人たちは、山下さんのこの文章をどのように理解されるでしょうか?


「子どもの幸せ」というのも、人それぞれの価値観が違うので、同じ文書を読んでも、全然違うふうに感じとられるのでしょう。

百ます計算が人より早くできるとか、レベルの高い学校に入るとか、世間で評価される会社に入るとか、そんなことは子どもの幸福に、全く関係ないと思います。それどころか、精神に害を及ぼすことすらあるのではないかと思っています。

「子どもの幸せ」とは、自立して、自分自身の生き方をできることだと思います。今の教育は、そんなことは主眼にないですよね。そんなことでは、いじめも自殺も、子どもが犯す事件も、いつまでたってもなくならないでしょう。

でも、あきらめずにあちこちで言い続け、書き続けたいです。それが何になるのかわからなくても・・・.


*山下さんの文章全文のコピーが欲しい方は、メールいただきましたら、ファックスか郵送致します。

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2006年11月 2日 (木)

さかなクン

10月30日付け(31日だったかな?)朝日新聞二面の、「ひと」のコーナーにでていた「さかなクン」、ご覧になったかたありますか?

東京海洋大学の客員教授になった「おさかな博士」ということで紹介されています。

私は見たことないのですが、テレビの「どうぶつ奇想天外!」にもでているそうですね。その人気と「さかな博士」ぶりを見込まれて声がかかったそうです。写真の笑顔がとってもいい感じです。

本名は非公開、年齢も「成魚」で通しているのですって。

【小学二年生の時、友達が描いたタコの絵をみて「タコちゃん、かわいいっ!」と興奮したのが始まり。】とのことで、以来、魚図鑑に見入り、バイト先も魚屋やすし屋。

小学校の卒業文集には「(魚の)教授になりたい」と書いたそうですが、【魚への愛があだになってか、勉強がはかどらず、受験は断念した】のだそうです。

それでも、海洋大学の客員教授になったので、【夢だった大学で、お魚の知識と栄養をもっともっと吸収したい。】と、博士号取得を目指しているとのこと。

子どものときからこんなに好きなことがはっきりしていて、熱中している人には、受験勉強は、あまりにも無駄が多いのだろうと思います。

高校の履修漏れで文科相や教育委員会が騒いでいるようですが、学習指導要領、そして受験制度そのものは、たぶんしばらく変わりそうにもないですね。それならば、ほんとうに好きなこと、やりたいことがある人は、さっさと〈中学→高校→大学→よい仕事〉のレールに見切りをつけて、我が道を行ったほうが、幸福な人生かもしれませんね。

さかなクン、みたいなかたがどんどん活躍してくれる日本になるとうれしいな。

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2006年10月31日 (火)

学習指導要領

ここのところ、高校での履修単位不足の記事をよく目にします。

そんなに騒ぐことなんですか?

校長がでてきてお詫びしたり、保護者会開いたり。どこの学校でも、知っててやったんでしょ?だったらもっと開き直っちゃえばいいのに。

「そもそもこんなにたくさんの科目を勉強させる、指導要領がおかしいんです。これを機会に、見直しをしていただきたい。」

くらい言える校長がいたらいいのに。

どこかの高校では、海外の修学旅行を、世界史の単位に当てていたとか。まあ、どれほど中身のある修学旅行か、報道だけではわかりませんが、その発想はいいんじゃないですか?

机に向かって、年号を暗記するだけの勉強をするくらいだったら、実際外国に行って、その国に興味を持ち、調べたり、歴史を学んだりするほうが、ずっとアタマに残るでしょう。


履修科目もれ、日本中の高校で行われていて、すでに単位不足のまま卒業した人たちも、何も困らず大学生活、社会生活しているってことは、学習指導要領自体に欠陥がある、と考えるべきじゃないでしょうか?


ルールだ、決まりだって、こんなに騒ぐくらいなら、パトカーも守らない車の制限速度をなんとかしてよ!!

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2006年10月17日 (火)

無神経すぎ

数日前、福岡のある中学校で、二年生の男子生徒が自殺したという報道がありましたね。

遺書もあり、当初よりいじめが原因とみられていましたが、その後の調べで、一年生のときの担任が、その生徒に対して無神経なからかい(いじめと言っていいでしょう)をしていたことが発覚しました。

母親からの相談内容を、他の生徒に暴露したり、みんなの前でその子のことを、うそつき、偽善者呼ばわりしたり。他の生徒に対しても、イチゴの種類になぞらえて、等級付けをするような発言をしていたとのこと。

この報道を目にして、怒りに震えました。明らかにこれは、先生がその子を標的にしていて、みんなに「この子はいじめてもいいんだよ」というサインを出しています。マーキングです。それを「からかいやすかったから」と言うとは、なんという無神経さ、なんという狡猾さ。そして、そんな人が、今は学年主任ですって。

これに類することは、これまで何度も報道されてきましたよね。親のどちらかが外国人の子を、「血が穢れている」などと言って、重いPTSDを負わせたという事件もありました。


Fが通っていた地元の小学校でも、そういう先生がいました。一人の子を標的にして、みんなの前でお尻をだしてたたいたり、保護者会でも、その子のイニシャルをだして、その子にどれだけ迷惑をかけられているか話したりしていました。

先生がそういう姿勢だと、その子自身も、「自分はだめなやつだ」「いじめられてもしょうがない」と思ってしまうし、周りの生徒も、「あいつならいじめてもいいんだな」と思ってしまうのです。


こういうことをする先生は、ほんの一部なのでしょうか?ほとんどはまじめな、良い教師なんだから、特別なそういう事件にいちいち腹を立てるのがおかしいのでしょうか?

私は、それをした先生個人の問題だけだとは思えません。根本は、子どもの人権を尊重しない傾向のある、日本の社会に問題があるのだと思うのです。

忘れ物をしたからげんこつで殴られてもしょうがない、運動場に集まるのが遅かったから、先生に「おめえら、さっさと集まらんか!」と罵声をあびせられてもしょうがない、そんな空気ができてしまっているのがおかしいんです。

会社で、上司が遅刻した部下を殴ってもいいのでしょうか?部下が訴えれば傷害罪になりますよね。
毎日毎日、上司に口汚くののしられて、鬱病にでもなったら、裁判ではどんな結果がでるでしょうか?

大人社会では許されないことが、大人対子どもの関係では、許されてしまう。これこそ子どもの人権を軽視してきた大人が犯している、大きな過ちだと思うのです。

「その先生が悪いんだから、罰を与えよ」、とか、「自分の子は学校で楽しくやってるんだから、問題ない」とかいう次元のことではないでしょう?

こんな嫌な、悲しい出来事をなくすためには、私たち大人が、ほんとうに子どもの人権を尊重しているのか、今一度考えなければならないと思います。


そもそも、「先生」と呼ぶことが間違い、勘違い、の元だと思います。

事件のあった中学校の校長が全校集会で、「先生たちが手を抜いてしまった、乱暴な言葉や甘えがあった。ごめんなさい。君たちの誰かを傷つけていたかもしれない。今後は『先生、それは違うよ』と言ってほしい。」と呼びかけたそうですが、「先生」という称が既に権威をまとっていますから、教師の間違いを指摘することは、心理的に難しいのです。

それでなくても、体の大きな大人には威圧感を感じるわけですがら、そのうえ「先生」と呼ばせられたら、どんなに「先生になんでも言ってくれ」と言われたって、その心理的壁は、なかなか越えられないのです。


きのくにでは、教師のことを、名前やニックネームで呼びますが、そのことの、大きな意味が、今ではよく理解できます。

FやNがきのくにの小学校時代に、公立幼稚園から一年間の研修できのくににやってきた教師がいたのですが、そのかたの意見に納得できなくて、子どもたちが猛反発し、話し合いをした、という話しを聞いたことがあります。きのくにの子どもたちは、おかしいことはおかしい、と、相手が大人(先生)であっても、言えるように育っているのです。


偉そうに書いてしまった私ですが、私自身、まだまだ子どもの人権ということに関して、自分のものになっていないと感じるときがあります。もう大きくなった息子たちに、「かわいい!!」と言ってしまって、嫌な顔をされるのです。ペットみたいにかわいがる、子ども扱いする、というのも、人権侵害ですね。

私も体験学習で学んでいかなければ、と思っています。

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2006年9月22日 (金)

国旗、国歌 強要は違憲

やったね、21日の判決!

国旗への起立、国歌斉唱の強要は不当だとして、東京都の教職員が起こしていた東京地裁の裁判で、原告の教職員が勝訴しました。東京地裁は、違反者を処分するとした東京都の通達や職務命令は「少数者の思想・良心の自由を侵害する」として違憲・違法と判断し、起立、斉唱義務がないと述べました。そして401人の原告全員に一人三万円の慰謝料を支払うように命じました。

勇気ある原告401名のみなさま、ほんとうにおめでとうございます。そしてお疲れさまでした。(都は早速控訴するようですが。)

原告も被告もどちらも大変驚いた判決結果だったようですね。でも、普通の感覚だったら、「勝訴してあたりまえ」と思いませんか?原告の一人がおっしゃっていましたが、「日の丸・君が代そのものに反対しているわけではなく、強制するのがおかしい」というのは、ほんとに、当然のことですよね。

都教委の教育長は「学習指導要領に反する姿勢を生徒に見せることが教育なのか」(朝日新聞22日付け朝刊35面)と言ったそうですが、それじゃあ、教師が自分の考えを発言する自由もなく、上から押さえつけられて、びくびくして過ごす姿を生徒に見せることが教育なんでしょうか?

今回、新聞に載っていた都教委の通達(骨子)なるものを初めて読みましたが、あきれるくらい高圧的なものです。こういう通達を出すこと自体が、おかしいですよ。

ほんの一部転載します。
【国旗掲揚について
式典会場の舞台壇上正面に掲揚する。都旗も併せて掲揚する。国旗は壇上正面に向かって左、都旗は右に掲揚する。屋外での国旗の掲揚は来校者が十分認識できる場所に。

国歌斉唱について
式次第に「国歌斉唱」と記載する。司会者が「国歌斉唱」と発声し、起立を促す。教職員は国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する。斉唱はピアノ伴奏等により行う。教職員の服装は式典にふさわしいものとする。】


対して、判決理由要旨は、大変すばらしく、血の通った人間の文章、という感じが致します。

すばらしいので全て書きたいくらいですが、長くなりすぎるのでこちらもほんの一部です。

【都教委の通達は、国旗掲揚、国歌斉唱の具体的方法などについて詳細に指示するもので、各学校の裁量を認める余地はほとんどない。教育の自主性を侵害するうえ、教職員に対し一方的な一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制することに等しく、教育基本法10条1項の「不当な支配」にあたり違法と解するのが相当。

入学式、卒業式で国旗を揚げ、国歌を斉唱することは有意義ということができる。しかし、宗教上の信仰に準ずる世界観、主義、主張にもとづいて、起立、斉唱、伴奏をしたくない教職員がいることもまた事実である。

このような教職員に対し、懲戒処分をしてまで起立させ、斉唱などさせることは、いわば、少数者の思想・良心の自由を侵害し、行き過ぎた措置だ。】

どう考えても、これがまともな思想だと思うのですが、今回の勝訴が両者とも驚きだったということに、一抹の不安を覚えます。

このところじっくり新聞を読むFが、「これ(判決)よかったな。でも、地裁なんやろ。まだ、高裁、最高裁までせんといけんのやろうな。」と言っていました。

思わず、「あんた地裁とか、高裁とか、そんな裁判のシステム知ってるん!?」と言ってしまいました。

きのくにで、いろいろ社会問題を学びましたし、裁判所見学もしたそうなので、そのあたり私よりよく知っているかもしれません。自民党総裁選に関しても、家族でいろいろ話しをしたりしました。話していて、管理教育で育つと人を支配、管理したい大人が育つ、自由教育で育つと、他者を尊重する大人に育つ、ということを実感しました。

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2006年9月11日 (月)

民主主義は常に育てていくもの

9月9日の朝日新聞朝刊の記事(8面)より:ノーマン・メイラー(米国の作家 83才)へのインタビュー

「米国の民主主義はどうなりますか。」という質問に答えて。

【私は、民主主義とは大きな賭けであり、非常に珍しい政治体制だと考えている。人間は子供の時から命令されるのに慣れていて、ファシズムの環境の方がむしろ自然なのです。

次の世代のために、毎日の小さな変化を積み重ねていくのが民主主義のやり方だ。その退屈さに耐えるには、判断力と意識をもった人々がいることが前提になる。民主主義は常に育てていくものであり、再生させていかなければならないのだ。】


「さっさと片付けなさい」「お友達と仲良くしなさい」「おしゃべりするな」「前向け」・・・こんな命令口調ばっかりの学校には嫌悪感を抱く。自分たちがどんな人間を生産(?)しているのか気付かない鈍感さに、不安を感じる。

そして、そんな教育を受けてきた私は、民主主義の大切さもやりかたも、まだまだわかっていないのかもしれない。

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2006年8月 8日 (火)

幼稚園で教育勅語!

今日の朝日新聞朝刊、31面ご覧になりましたか?大阪の私立幼稚園で年長組に教育勅語を暗唱させている、という話しが、【国と私】というコラムの中に書いてありました。

園長(53)は「今の社会は国に奉じるという意識が欠けている。勅語によって、再認識させなければならない」と説いています。

なんという危険な発想!うちの子がそこへ行っていたら、断固反対するでしょうし、聞き入れられなければ退園するでしょう。もっとも、そういう園長がやっている幼稚園は、たぶん上から押さえつける教育でしょうから、ハナからそんなところにはやっていなかったでしょうけど。

鹿児島県川辺町教育委員会では04年に、家庭用の教材「名文集」に勅語全文を掲載し、配布後、指摘を受けて回収したそうです。

至る所で、じわじわと国に奉仕する子どもを育成するたくらみが企てられています。私たちはアンテナを鋭くしておかなければなりません。

先日の教育講座でも、加藤幸次さんが、「国は、国民教育をしようとしている。経済のための人間育成と、言うことをよくきく国民をつくろうとしている。百ます計算で、ストップウオッチでタイムをはかったりして。そういう教育は、人格の形成をないがしろにするんですね。」とおっしゃっていました。

確かに日本はその流れになっているようです。しかし、子どもひとりひとりの人格を尊重する、新しい教育も、確実に広がりつつあります。机に向かって教育勅語を読まなければならない子どもと、外にでて、体を動かし、友達と力を合わせて考える子どもと、どちらが豊かな人間に成長するでしょうか?


 ーその大阪の幼稚園に子どもを行かせている保護者さんたちへー
教育勅語の中身と歴史を学んでください。みなさんで一斉に反対して、教育勅語を頭に叩き込むなんてこと、どうぞやめさせてください。どうか子どもたちを守ってださい。

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2006年7月10日 (月)

お知らせ

1)昨日の記事「言い過ぎない」につけていただいたpiririさんからのコメントですが、操作トラブルにより、記事自体が削除されてしまいました。よって、コメントも消えてしまったので、こちらに転載致します。

「奈良の事件について」にも同じコメントが入っていますが、最新のコメントでないと、見落とされるかたが多いのではないか、との配慮から、再度いただいたコメントです。みなさま、どうぞご意見メールお願いします。

【2006年7月6日の朝日新聞地方版のページで、
朝日新聞奈良総局が奈良県田原本の放火事件への意見を募集しています。メールのあて先は、nara@asahi.comです。
名前と連絡先を明記してくださいとのことです。】


2)現在ココログ管理画面のアクセス状態が悪く、操作しにくくなっております。11日午後からメンテナンスが入るそうなので、更新も、それ以降にいたします。(13日以降)

削除したくないものが削除され、同じものが二重にアップなど、もうめちゃくちゃで、ストレスたまりま〜す!それ以上に、がんがん書きたいのに書けないのが苦しいです。メンテナンス後、使いやすくなってること、期待しています。

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2006年6月 5日 (月)

体罰は愛のムチじゃない!

朝日新聞本日朝刊に、全国4214校を対象とした、高校野球指導者へのアンケート結果がでていました。(回答率60%)

その結果、体罰を容認する回答は6割にのぼっていました。そして選手時代に体罰を受けた体験があり、それを肯定的にとらえる人ほど、指導者になってからも体罰をする割合が高い、という結果がでています。

【高校時代の体罰の体験が「自分のためになった」「当時は嫌だったが、今はためになったと思う」と感じている人は81%に達し、そのうち体罰をふるった人は85%】 ー13面よりー


息子が地元の小学校に行ってた頃、保護者会では、私は「子どもを絶対殴らないでください」とお願いしていましたが、「子どもは叩いてでもわからせる必要がある」とか「自分も子どものころ先生に叩かれて、自分が悪かったことがよくわかったから、うちの子は、悪いことをしたら叩いてもいいです」という親が、必ずいました。

そして、それに対して、感情でなく、論理的に反論できなくて、くやしい思いをしたものです。でも、今なら大丈夫。森田ゆり氏の本を読んだから、ちゃ〜んと反論できます!

アンケートの回答にもありましたが、 【子育てと一緒。愛情があればこそで、それは体罰と呼ばれるものではない】 などという論理のすりかえに、怒りが込み上げました。


以下、『しつけと体罰』より抜粋します。


【・子ども時代に体罰を受けたことが、自分にとってよかったと思う人 
 あなたは、体罰は子どものしつけに必要という、体罰容認派の中核をなす人です。

「家にいることも少なく、あまり会話もなかった父親が、わたしが万引きをしたときには、本気で怒ってくれて、張り倒されました。そのとき、わたしは父親の愛を強く感じて、二度と万引きをすることはありませんでした」と、語った人がいました。 ー略ー

「張り倒されたから、あなたは二度と万引きをしなくなったのですか?」と、私は質問を投げかけ、次のように話しました。

「子どもって、親から注目してもらうこと、気にかけてもらうことを求めていますね。そのとき、父親の愛情を強く感じたのは、いつもは気にかけてくれない父親が、本気であなたに向き合ってくれたからでしょ。あなたにとって重要だったのは、張り倒してくれたことよりも、父親が本気であなたに向き合ってくれた、ということだったのではないですか。

その真剣な向きあいは、体罰以外の方法ではできなかったのでしょうか。他の方法でも、父親の真剣さがあなたに伝わりさえすれば、同じように愛情を感じたのではないでしょうか。」】

野球部指導者の、体罰容認派の人へも、こう問いかけたいものです。


そして、森田氏は、こう、きっぱり書いてくださっています。

【いけないことをしたから、なぐられてあたりまえの人間は、ただひとりとしていません。体罰は、社会における子どもの地位が、いかに低いかを示すバロメーターです。大人に対しては許されない行為が、相手が子どもだと許されてしまうのです。同じ行為が大人に対して為されれば、暴行罪や傷害罪という、れっきとした犯罪とみなされても、相手が子どもだと、それは「しつけ」や「教育的配慮」や「熱心さのあまり」となってしまうのです。】


ほんとにそうですね。子どもも尊厳を持つひとりの人間なのです。それを大人が踏みにじっておいて、自己肯定感のある、まともな人間に育つわけがありません。

もっとも、言葉の暴力というのもありますけれども。


きのくにの体験入学に行ったとき、同じく当時小学三年生を持つお母さんと知り合い、お話しました。私が、地元の小学校で体罰が普通に行われていることを話したら、「体罰もいけないけど、言葉の暴力もすごいでっせ〜。うちの子の担任(きのくにに転入する前の学校の)、女の人なんやけど、この前、算数の〈余り〉を教えるとき、いつも悪さするから一番前の席に、一人で座ってる子を指差して、“みなさんは、み〜んな二人づつ並んですわっているでしょう。でもAくんは一人で座っていますね。こういうのを〈余り〉というのです。わかりますか〜?”って言ったんでっせ〜。」


子どもの人権はどこにあるんだ〜!!


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2006年5月22日 (月)

なんでこうなるの??

ネットで見た、今日の毎日新聞の記事です。

【児童生徒の指導のあり方を調査・研究していた国立教育政策研究所生徒指導研究センターと文部科学省は22日、問題行動を起こした小中学生を出席停止とするなど厳格な対応を求める報告書を公表した。ー略ー

現在の公立小中学校では、学校の秩序が維持できないほどの問題行動を起こす児童生徒がいたとしても、停学や退学などの処分は認められていない。このため、報告書は「居残り」「清掃」「訓告」などの懲戒や出席停止制度の活用、高校などでは停学・退学処分の適切な運用を求めている】

子どもの個性や個人差を無視した、教師中心の一斉授業。授業がわかろうとわかるまいと、とにかく朝から夕方まで机に向かうことを要求される。家庭ではほったらかしか、「よい子」を求められて過干渉のどちらか。ストレスのたまった子どもたちは、誰からも理解されず、社会からも排除される。

子どもがなぜ問題行動を起こしてしまうのか、その根本原因に目を向けないで、「居残り」「清掃」「訓告」などという対応で解決するわけないでしょう!子どもを変えようとするのでなく、親、学校、社会が変わらなくてはだめなのに、どうしてわからないんだろう。力や権力で押さえつけようとしたら、そのときは効果があったように見えるかもしれないけど、数年後、大変なことになるのに。すでにその兆候は現れているような気がしませんか?悲惨な事件の多さにそれを感じます。

きのくに子ども村学園長の堀さんは、こう書いています。

【今いちばん急がれるのは、子どもたちが「ぼくは自分が好きだ」とか「生きるというのは、こんなに素晴らしいことだ」という実感を持って自発的に生きる場としての学校をつくることだ。】 ー『自由学校の設計』ー

自分が好きな人、生きることの素晴らしさを実感できている人は、他人の迷惑になるような行動はしないものです。子どもたちがそういう人になれるような学校、社会をつくることのほうが、罰を与えるより、よほど効果的でしょう。

私がこんなところに、一生懸命書いても、なんになるんだろうと、ほんとうに無力感に襲われます。でも何もしないでいては社会は変わらない。きのくにのすばらしさを実感しているかたがた、いろんなところで声をあげましょう、ね!

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2006年5月 2日 (火)

体罰は教育だ〜!?

4月30日付け朝日新聞の記事より抜粋

【愛知県美浜町の「戸塚ヨットスクール」で80年代初め、訓練生4人が死亡・行方不明になった事件で、傷害致死や監禁致死の罪に問われ、懲役6年の実刑判決を受けた戸塚宏校長(65)が29日朝、刑期を終え、静岡刑務所を出所した。戸塚校長は記者会見で「体罰は教育だ。正しい教育論がないから教育荒廃が起こる」と持論を展開。】ー以下略ー

以下には、森田ゆり氏著の「しつけと体罰」(童話館出版)の第二章の見出しを抜粋します。

【第二章 体罰の六つの問題性
1.体罰は、それをしている大人の感情のはけ口であることが多い
2.体罰は、恐怖感を与えることで子どもの言動をコントロールする方法である
3.体罰は、即効性があるので、他のしつけの方法がわからなくなる
4.体罰は、しばしばエスカレートする
5.体罰は、それを見ているほかの子どもに深い心理的ダメージを与える
6.体罰は、ときに、とり返しのつかない事故を引きおこす】

二つの抜粋、二つのご意見、みなさんは、どうお感じになられるでしょうか?

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2006年4月26日 (水)

戸塚ヨットスクール

今日の朝日新聞朝刊に、戸塚ヨットスクール校長の戸塚宏受刑者が、刑期を満了して出所する、という記事がでていました。以下、一部抜粋します。

【「戸塚ヨットスクールを支援する会」(会長・石原慎太郎東京都知事)によると、戸塚受刑者は健康状態も良く、「より一層スクールを盛り上げ、教育再生に力を尽くしたい」と意欲を示しているという。】

石原都知事が支援する会の会長なんですか。暗澹たる気持ちになりました。

人を「力」で押さえ込んだり、「力」で変えようとしても、無理ですよ。そのとき、表面的には従順にさせることはできても、真に人が変わる、人を変える、のは、「愛」だと思うんだけどな・・・。

石原都知事がきのくにを見学してほしいし、シンポジウムで卒業生が話す様子を見てほしい。それでも何も感じないかな。価値観が違いすぎて、理解できないだろうか。それでも希望は捨てたくない。

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2006年4月24日 (月)

採決禁止?

4月15日の朝日新聞社説に「東京の先生は気の毒だ」という文章がでていました。それによると、東京都教育委員会が、都立学校の職員会議で、先生たちの挙手や採決を禁止したということなのです。つまり、職員会議は決まったことを伝達するだけの場であり、各先生方の意見は聞かないで、校長がすべて決断せよ、ということのようです。

こんなことって、許されるのですか?民主主義はどこへいったのでしょうか?大変恐ろしい流れが起きています。

そういえば、卒業式のときは、ここ数年、君が代斉唱のときの起立の問題がおきますが、今年は、最初から先生たちにいすが用意されていなくて、ずっと立ちっぱなしのところがあったそうです。最初から立ったままなら、君が代のとき、起立しただのしなかっただの、という問題がおきませんものね。

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