2010年8月22日 (日)

寮生活とホームシック

**8月23日9時半までにこの記事をお読みになったかたへ:堀さんとニイルの文中で一カ所ずつタイプミスしていました。訂正しましたので(下線ひいてあります)、恐れ入りますが、正しいほうを、もう一度お読みください。**


ブログを書いているおかげで、たくさんのかたからメールをいただきます。


一番多いのは、きのくに、かつやま、南アルプス、北九州への入学を検討しているかたで、「でも、子どもに小さいうちから寮生活をさせるのが心配」というかたからのご相談メールです。


人それぞれ、状況は違いますが、私がまずお伝えすることは、

堀さんの『自由学校の設計』の43ページ、「寮生活とホームシック」のところをお読みください

ということです。


【寮にかんしては、見学の人や講演を聞いてくれた人からしょっちゅうだされる疑問がある。

「小学校の子でも寮生活は大丈夫でしょうか。親元から離れて暮らしていても問題ないでしょうか。」

大丈夫である。ほとんど問題はない。ただし「親のほうに問題がなければ」という前提が必要だ。

子どもを離すことへの不安にとらわれていたり、子どもへの支配欲が強かったりすると、子どものほうが寮生活への適応に時間がかかることが多いからだ。いつも親から心理的に囲い込まれているので、その囲いがはずれると、かえって不安定になるのである。

こういう子は、ホームシックが長く続くし、いつまでも寮母にすがることになりかねない。】


以下は、本でお読みくださいね。


それにしても、「寮生活」と言ったって、毎週末に帰宅する児童が一番多いわけですが、ざっと日数を数えてみましたけど、一年の半分は家で過ごせるわけなんですよ。ちょうどいいバランスじゃあないですかねえ。


我が家は毎週帰るわけにはいかない距離でしたから、家庭で過ごす時間はもうちょっと少なかったですが、それでも、春、夏、秋、冬と、たっぷり休みがありますし、ちゃんといい子に育ってますから、心配ないで〜す!


9月からの転入を控えているかたもおられると思いますが、子どもさんのことは安心してお任せして、親は、その分浮いた時間を、自分磨きに使えば、きっと、ますます楽しくなると思います。


さて、ニイルは、寮生活のこと、こんなふうに言っています。

『ニイル選集③ 恐るべき学校』の第13章『質問に答える』の中で、「家庭にいて学校へ通学するのと、寄宿学校に入るのとでは、どちらが子どもにとってよいでしょうか」という質問に答えての文章です。


【私は寄宿学校を経営して生計を立てている。だから私の答えはかたよっている。しかし、どちらがよいかは、どんな学校や家庭であるかによって違う。

私の見るところでは、よい家庭の子どもは喜んで家庭へ帰り、また喜んで学校にもどってくる。

しかし、どちらかといえば、よい寄宿学校に入るほうがよいだろう。どんなよい家庭であっても、たいていは互いに神経にさわることが起きるものだ。


それにもう一つ大切な要素を考えねばならない。

つまり、通学の子どもは、十分にほかの子どもと交わることができない。子どもにとっては、きょうだいの間のような情緒的に深く結びつきすぎていない子どもと遊ぶのがいちばんよい。


さらに寄宿学校は、子どものためにつくられたものである。家庭は、そもそも大人にふさわしいようにできている。

私は、子どもたちのやかましい物音の真っただ中で暮らしていける。それが私の仕事だから。

しかし会社からもどった父親はそうはいかない。父親のほどんどは、うるさい子どもには我慢がならない。

結局こういうことだ。

家庭がよくても、学校が悪いと害が大きい。逆もまた真である。】


ニイルの本、どれもおもしろいですが、この「質問に答える」の章、特に好きです。


| | コメント (8)

2010年8月10日 (火)

不用意なことば

以前にも書いたと思いますが、私、背が低いんです。ここ何年もはかってないけど、たぶん、150センチ、ないです。

今、背が低いことで、特に、すご〜く困っていることはないのですけれど、子どもの頃は、ものすごいコンプレックスだったなあ。


だって、小学校に上がる前から、母が、「背が伸びないねえ、お姉ちゃんは、ちゃんと大きくなったのに・・・」と悲壮な顔をして、言うんですもの。


小学校に上がれば、いつも身長順に並ばされるから、そのたびに、自分の背の低さを意識せざるをえないし。


とにかく、両親から、いつもいつも言われた、「背が伸びないねえ、困ったねえ」という言葉が、心にふか〜く突き刺さっていて、子どもながらに、とても困ったことだ、恥ずかしいことだ、と思っていました。


でも、どんなに困ったって、背は伸びませんよね。


そんなこんなで生きてきて、ニイルの本の、この部分を読んだときは、「そうですよね〜」と、声を大にして、叫びたくなりました。そして、私の気持ちをわかってくれる人に出会って、とってもうれしかったです。


その部分とは、『ニイル選集②問題の親』の235ページ(1995年初版)、以下の部分です。


【このほかに子どもに劣等感を抱かせるのは、親が子どもの体の大きさを口にする時だ。

子どもには「体が小さい」といってはならない。

私は、多くの母親が子どもの目の前で「この子は、年のわりには小さいでしょ」というのを耳にする。

大人のことばは、子どもにとってはとても大きな意味をもつ。大人は、このことを十分にわきまえておかなくてはいけない。

子どもの頃、私は、近所のおかみさんがいつも私の母親に「まあ、ニイルさんの奥さん、このお子さんは、あんまり長生きはなさいませんよ」といったものだ。

私はこれを聞くと『家庭医学全書』を見ないわけにはいかなかった。そして、その中のどの病気も自分にあてはまると気づいて恐怖にふるえたのを、いまでもはっきりと覚えている。 ー以下略ー】


ほんとうに、親の一言が子どもの心に与える影響は、とても大きいです。


もうひとつ、私が親に言われて、影響が大きかったな、と思う言葉は、

「お父さんは、男の子がほしかったのよ」

という言葉です。


「最初、お姉ちゃんだったから、あんたのときは、そりゃあもう、男の子を楽しみにしてたんだけど、また女の子でしょ。ほんとにがっかりしてたわ〜」


これ、何度も言われました。


それで、子どものころは、女の子らしくしてたら、父を悲しませると、無意識で思っていたのでしょう、おもちゃやさんに行っても、

「お人形いらない、ピストルがいい!」

と言っていました。


高校では山岳部、大学では合気道部。


「合気道部に入ったよ」と告げた時の、父のうれしそうな顔!

私は、ほんとうに自分がやりたいのことは何なのか、わからなくなっていました。


【男の子を望んでいたのに、女の子が生まれた場合に、親はどうしたらよいか。これについては、私はただ、親たちは自分たちの満たされない思いをいっさい口にしないほうがよい、としか申し上げられない。】
『問題の親』P.213

上記は、「第二章 いくつかの事例」の中の一節です。前後もお読みいただくことをお勧めいたします。


子育てでは、こういう配慮こそ大事なことだと痛感しています。


そして、こういう大事なことを知らないまま、親や教育者になってしまうことは、大きな問題だと思います。


私、きのくにに出会うまで、こんな大事なことを知らずに生きてきました。ただ、自分が親に言われてイヤだったことは、しないように気をつけてきましたが・・・。


「あら、男の子二人なのね〜、奥さん、次は女の子生まないと!」

なんて、息子たちの前で、平気で言ってのけるクソババアには(←あら、失礼!)

「いいえ〜、男の子だけで十分、と〜ってもかわいいですからあ〜」と言っていました。本心でしたし。


とにかく、不用意な一言で、子どもを傷つけている大人、そして、傷つけていることすら気がついていない大人、たくさんいますよね。


学力向上とか、食育とか、そんなことより、まず、子どもの心を大切にすることに目を向けてほしいものです。

| | コメント (5)

2010年7月29日 (木)

あるのは問題の親ばかり

【問題の子どもというものは決してない。
あるのは問題の親ばかりだ。】

これは、A.S.ニイルの『問題の親』の冒頭の言葉です。


昨日(27日)秋葉原殺傷事件の加藤被告の第16回公判が開かれ、ネットでも新聞でも、公判記録が掲載されました。(新聞では要旨)


あまりに重くて、これについて書くのはやめておこうと思っていたのですが、寝られなくなって、とにかく、書いています。


加藤被告は

「事件を起こした責任はすべて私にあり、後悔している。同じような事件が将来起きないよう、参考になることをお話したい。」と語ったそうです。


私たちは、ほんとうに、彼の言葉をしっかりと受け止めて、考えなければならないと思います。


多くの人が感じたことだと思いますが、彼の子ども時代、あまりにかわいそうです。


子どもの頃から大人になっても、なにか人にいいたいこと、伝えたいことがあるときは、いきなり相手を殴ったり、仕事も持ち場をぷいっと離れるなど、すぐ行動にうつしていた、ということです。

これは、何の説明もなく、いぎなり怒鳴りだしたり、たたいたりする母親の育児態度そのものです。


母親の育てかたに対する批判が大きく取りあげられていますが、私が一番腹が立ったのは、父親の態度です。


「妻は被告に高学歴を望んでいたが、私は健康に育てばいいと思っていた。被告が小学生のころ、妻はつきっきりで宿題を見ていた。チラシにひっくり返した食事を食べさせたことがあり、やりすぎだと思った。」
(父親の調書の要旨より抜粋)


「やりすぎだと思った」のなら、どうして止めないのですか?


「高学歴でなくてもいい、健康に育てばいい」と思っていたのなら、どうして、息子をたたいてまで勉強を強制する妻に、反対しなかったのですか?


あなたが精一杯守ってあげれば、彼は救われたはずです。


傍観者の父親。

傍観者は絶対自分を振り返らない。


「警察からの電話で事件を知り、なぜなんだ、との気持ちしかない。裁判でありのままを話してほしい。」


全く他人事ですよね。


私、もう、怒りが込み上げてきて、どうしようもないくらいです。


私の家族が被害者の一人だったら、私は、この父親を徹底追及したいです。もちろん、母親にも腹はたちます。


とにかく、自分たちのあり方の、どこが間違っていたのか、しっかりと向き合って、被害者の方々にはもちろん、加藤被告に対しても、詫びてほしい。


そうでなければ、「同じような事件が将来起きないように」という、加藤被告のことばを、受け止めたことにはならないと思うのです。


もう一度、『問題の親』からの抜粋です。(P.16)

【ー略ー  このように書いてくると、親たちが次のようにいうのも無理はない。

「たしかにその通りでしょう。しかし、学校と家庭は違います。私は、古い意味で子どもを愛しております。子どもは私の一部です。私は、子どもとの関係に感情を持ち込まないわけにはまいりません。」

このことばに間違いはない。しかしどんな「感情」を持ち込むのだろう。愛だろうか。それとも憎しみだろうか。承認だろうか。それとも不承認だろうか。

親はいつでも子を愛していると思われている。

しかし、親の愛はいつも存在するのだろうか。

私はあえて言いたい。問題の子どものケースを見ると、親の愛はないことが多いのだ。

だから問題の親にかんする論点は、「大人の心理のどの要素が、自分自身を憎み、その結果として子どもを憎む親に変えるのか」ということにしぼることができる。これはとても大きな問いである。】


「親は子どもを愛するものだ」

「躾のつもりでやっていたことだ」

そういうおためごかしはやめてもらいたい。


数年前、生徒が事件を起こした学校で、校長が集会で話したことの中に、

「君たちの親は、いつも君たちを愛している」

という言葉がありました。


そういうことを言うから、親からつらい仕打ちを受けている子どもたちが、それを人に話せなくなるじゃないですか。

自分を責めるようになるじゃないですか。


もう、本音でいこうよ。


子どもを愛せない親もいる。


そういう不幸な親もいるのが現実。


それを認めた上で、じゃあ、どうしたらいいのか、なにをすべきなのか、考えていかないと、いつも表面的な後始末で終わってしまうような気がする。


私の思いつくことの一つは、とにかく、みんな、ニイルの本を読みましょう、ということです。


*怒りのパワー全開で、ごめんなさい。次回は、少し楽しい話題をお送りします。


| | コメント (7)

2010年6月23日 (水)

教育とは、生きることそのもの

大分での堀真一郎さん(きのくに子どもの村学園長・北九州子どもの村小学校理事長)の講演会が近づいてきました。

6月26日(土)13時より大分市府内町のコンパルホールで行います。

ここ数日で、さらに申し込みが増えてきました。
定員60名ですので、みなさま事前申し込みをよろしくお願いいたします。プロフィールページからメールが送信できます。

来年は、もっと大きな会場を借りなければ!(←もう、来年やるつもりになっている)


「こんな教育があるなんて、知らなかった!」
という声をたくさんいただいています。


そうなんですよね、まだまだ知らないかたが多いですよね。もったいない。


今回、講演会のお知らせをするにあたって、まず、保育園、幼稚園にチラシをお配りしようと思って、いろいろと調べたのですが、大分でも、さまざまな、特色ある保育をしているところが多いのですね。

さくらさくらんぼ保育、シュタイナー、フレーベル、などなど。

都会だと、もっといろいろあるのでしょうね。


でも、小学校にあがると、急に選択肢がなくなります。

公立か、お受験の私立か、という感じではないでしょうか。


心を育む保育を受けて、丈夫な根っこを育てたなら、きのくにのような自由教育で、たくましい幹になって、青々とした葉っぱをしげらせてもらいたい。管理教育でしぼませてほしくない。


だから、私は、「多忙」の上に「超」が10個以上つくくらい忙しい堀さんを、また、大分に呼んでしまいました。


堀さんを事前学習(?)したいかたにお知らせです。


当ブログ右サイドバーに【きのくに関連動画】という項目があり、二つのテレビ放映動画が紹介されています。

一つはNHK「こころの時代」で堀さんが1時間、たっぷりお話されています。

もう一つは、「たけしのニッポンのミカタ」で、子どもたちの様子がうつっています。


ぜひご覧ください。


それから、北九州子どもの村小学校のHPがリニューアルされました。↓

http://www.k-children.jp/


さてさて、今年に入ってから、「アリサ」の上映、宣伝から、南アルプスでの教育講座、そして、今週末の堀さんの講演会と、忙しいなあ・・・と、うれしい悲鳴。全部好きなことなんだもの。楽しくて楽しくて。


長男のFは、7月2日から一ヶ月、イタリアでの音楽研修にでかけるのですが、私、自分のことに忙しくて、口だす暇もありません。

第一希望の先生にレッスンを受けるためには、最初に試験があるそうなので、ハードルが高そう。

レッスンは英語だそうで、Fはあまり英語は得意ではない、どころか、片言?らしいが、まあ、なんとかなるでしょ、という感じ。

昔の私からは想像もできないほどのおおらかさ!

これでいいんだよね、これがいいんだよね、と思います。


堀さんの著書『自由学校の設計ー増補版ー』の232ページに、生徒が文章を書いています。

【ぼくは、小5の時にきのくにに入学した。・・・・・最初の頃は、何も考えないで、勉強もあまりせずに、パソコンに明け暮れしていたこともある。かなりもったいないことをした。

まだきのくにの価値に気付いていなかった頃の話しである。あの頃の時間をやり直したくなることがある。

きっと、きのくには、こういうことを学ぶ学校なんだろう。だから、残り少ない貴重な時間を大切に使おうと思う。

たぶん、高校へ行っても、きのくにで学んだことは、ずっと忘れないだろう。つまり、ぼくの生きる上で、きのくにとは、ずっと一緒というわけだ。 (T 15歳)】


親はよく、「今のうちからやっといたほうが・・・」とか「どうしてあのときやっておかなかったの!!」と言う。

でも、そういう小言は、本人がその気にならない限り、まったくもって、無駄なこと。


【教育は「人生の準備」ではない。教育とは生きることそのものである。】 
A.S.ニイル 『問題の子ども』より


講演会当日は、A.S.ニイルの本やきのくにの生徒が作った本も販売いたします。

コンパルホールでみなさまとお会いできることを楽しみにしております。

| | コメント (3)

2010年5月 6日 (木)

ニイルのおバカさん

『かつやま子どもの村通信 第56号』でも紹介されていた、『ニイルのおバカさん』、買ってしまいました〜。
Photo

子ども時代のニイルは、学校の勉強はできないし、何をやってもうまくいかず、父親も愛想をつかすほど。ドジなこともいっぱいして、読んでいて、思わず吹き出すことが何度もありました。

それにしても、昔の出来事や、そのときの自分の気持ちを、よく克明に覚えていることには驚かされます。


そして、サマーヒルを創設するまでに、こんなに様々な紆余曲折があったことを、本書を読んで初めて知りました。

以前から堀さんは、「20代に入ってからでもやり直しがききます。子どもをせき立てないで、30歳くらいまでは面倒をみてあげるくらいの気持ちでいてください」とおっしゃっていますが、「ほんとに、人生、いろいろ経験して、じっくり考えて進んでいけばいいんだなあ」と、この本を読んで、改めて、そう思いました。


そういえば、先日の講演会で、「きのくにのような教育が良いということは、誰にでもわかりそうなものなのに、どうしてもっと広がらない(認められない、だったかな?)のでしょうか?」という質問がでました。私も常々思うことです。

それについての堀さんのお答えは、ここに書くと、言葉通りではないので、誤解を生じる可能性があるので、敢て書きませんが、実体験をふまえてのお話に、ふむふむと納得されたかたも多かったのではないでしょうか。


それと同時に、私は、『ニイルのおバカさん』の中の『日本語版への序ー霜田静志をしのぶ」の文章を思い出していました。


【日本の読者の方々にお話をするのは、私にとっては容易なことではない。それは日本語がわからないからではない。皆さん方のお国の教育事情をよく知らないからである。

しかし、察するところ、他のすべての国の教育と同じように、書物による学習、上からのしつけ、従順、その他あらゆる背筋の寒くなるような美徳を大切にしているのではないかと思う。

これは、その国の社会体制とは関係がない。共産主義国でも資本主義国でも同じように、学校を出れば永久に忘れてしまうのに、せっせと教科の勉強にはげんでいるのだから。


権力の座にあるものは、いつまでも権力を保持しようとする。そのためには、彼らが支配している国民は、ものをいわぬおとなしい羊のようでなくてはならない。

そこで彼らは、一番根本的なところから手をつける。つまり、幼い子どもをつかまえて、おとなに服従するように、性の欲求を抑圧するように、そして権威を恐れるように教え込む。

その結果、子どもたちは去勢された牛のようになり、既成の権力に挑戦したり反逆したりすることのできないおとなとなる。

だから、学校で歴史や地理を教えることは表面的な目的にすぎないのであって、本当のねらいは、子どもの性格を型にはめて作ることにある。

こういう教育の結果がどうなるかは、今日の病める世界を見ればよくわかる。

今日の若者の乱暴な行動は、基本的には、親や教師の権威にたいする抗議である。赤ん坊を打つ母親は、それによって赤ん坊を、乱暴な行動を何とも思わない人間へと育てているのである。

ー以下略ー】


この本が、もうなかなか手に入らないというのは、ほんとうに残念です。

| | コメント (0)

2009年12月24日 (木)

許せばいい

『身近な人の名言・格言、今年の受賞作を発表!』という記事が、先日の新聞に出ていました。

そのなかで、黛まどか賞をとった、39歳の主婦のかたの『名言』が、とても心に残りました。


【現在中1の息子が5歳の時のことです。ある日、何度注意してもいたずらばかりするので、父親が怒りました。

「口で何べん言っても、たたいてもわからんのなら、お父さんは一体どうすればいいんか!?」

息子は涙をぽろぽろ流しながら一言。


「許せばいい」


小さなことをいちいち怒るなという事か?と家族みんなで大笑いでした。】


大笑いしてくれるような家族で、よかったですね!


実際私も、今思えば、怒らなくてもいいようなことでいちいち怒っていたな〜、ということがたくさんありました。

周りの人から「良いお母さん」、と思われたくて、小さなことで息子を叱ったり、自分が他のことでイライラしてたものだから、つい、普段だったら怒らないようなことなのに、声を荒げたり。

きのくにと出会って11年、息子たちに小言を言う事が、ほんとうに減ったなあ、と、つくづく思う今日この頃。そして、息子たちは、野方図に、わがままいっぱいに育ったかといえば、とんでもない!すばらしくすてきに育っています!

(親バカも相当入っていますが、でも、きのくに保護者さんなら、この気持ち、わかってくださいますよね?)


さて、A.S.ニイルは『問題の子ども』の中で、このように書いています。


【子どもが求めているのは愛と理解である。善良なままで成長する自由だ。

子どもが善良なままで大きくなる自由、これをもっともよく与えることができるのは、本当は親である。

しかし、世界には困ったことでいっぱいだ。そんな婉曲的な言い方をやめてはっきりいえば、世界は憎しみであふれているといったほうがよい。

そして子どもを問題の子どもにするのは、親自身の心の中の憎悪である。それは犯罪者に罪を犯させるのが社会にしみわたった憎悪であるのと同じだ。


救いは愛にある。


しかし愛を強制できる人はだれもいない。だからもし世の中に希望があるとすれば、それは寛容を学びとることである。

おそらく寛容こそ愛であろう。しかし私にはよくわからない。

寛容を学ぶには、なによりもまず、自分自身に問いかけねばならない。

「寛容と慈善は家庭で始まる」というが、内省ことは、知恵の始まりとまではいわないとしても、寛容の始まりである。

問題の子どもをもつ親は、静かに腰をおろして自問自答しなくてはいけない。


「私は、子どもに寛容を示しただろうか。私は信頼を示しただろうか。理解を示しただろうか。

ー略ー

「なんとしても、人それぞれに自分自身の生き方をさせよう。」

人生においても、教育においても、これが私のモットーだ。これは、ほとんどの場合にあてはまる生き方である。

考えられる例外はひとつだけ、つまり強盗がナイフをもって歩き回るような場合だけである。

この態度こそが、ひろい心を育てる唯一のものである。これまで「ひろい心」ということばが思い浮かばなかったのは、どうしたことだろう。

これこそは、自由学校にふさわしい。


私たちは、子どもにひろい心を示すことによって、ひろい心をもった人間になるように導いているのだ。

心がひろいということは、寛容の心をもつということだ。】
 

| | コメント (0)

2009年12月14日 (月)

知識よりも感情

このブログの検索キーワードを見てみると、「きのくに卒業生」とか「きのくに 進路」などどいう言葉がよく見られます。(一番多いのは、「きのくに 授業料」ですが・・・)


みなさん、「きのくにって良さそうだけど、卒業生は何してるのかしら」って、気になるんですね。

人それぞれで、進路もほんとうに多岐に渡っているようです。

参考までに、我が家の場合を・・・とも思うのですが、その渦中にある場合は、いろいろと書きにくいこともあるので、しばらくたって、プライバシー等の問題がなくなったとき、追々書いていきますので、お待ちくださいね。


さて、最近また、『ニイル選集』を読み返したりしているのですが、本文の内容もさることながら、最後に載っている、霜田静志氏やジョン・エッケンヘッド氏、訳者の堀真一郎氏の文章もとてもすばらしく、まだお読みでないかたに、ぜひぜひ紹介したく、一部転載することにしました。


*A.S.ニイル・・・サマーヒルスクール(スコットランド)の創設者。1973年に死去した際、ロンドン・タイムスは
「もし、わが国の子どもたちが、学校において以前よりもいくらかなりと幸福であるとすれば、それは、この変わったスコットランド人教育家によるところが多い。」
と記した。


*霜田静志・・・初めてニイルの著書を翻訳し、日本に紹介した。


新版『ニイル選集1 問題の子ども』 の中の『ニイルを語る1ー霜田静志』より。


【○知識よりも感情
ニイルの教育の特色のもう一つは、知識よりも感情を重視する点である。彼は特にこの題名の本を一冊書いて、これを徹底的に論じているほどであるが、他のところでも、しばしばこれを論じている。

ではなぜこれを重視しなければならぬか。

昔から今日に至るまで、教育はどこの国でももっぱら知識を高めることにつとめて来た。そして知識の進歩は人類文化の高度の発達をもたらし、今日の科学時代を現出した。

これによって産業の近代化は徹底的に行われ、家庭は電化されて、生活は快適なものとなり、便利なものとなった。ー略ー


しかしこれによって人類ははたして幸福になり得たであろうか。いかにも今日の科学および科学技術の進歩は、われわれの生活を豊かにし、これを向上させた。

しかしその一方核兵器の研究開発によって、戦争の脅威はいよいよ増大し、恐るべきものとなった。

ひとたび核兵器による戦争がおこったなら、もうこの戦争には勝ち負けはない。地球の大半は破壊しつくされ、敵味方とも、共だおれになるよりほかはない。 ー略ー


そこで今日の教育としては、科学知識の向上ということもさることながら、このような科学知識を人類の平和と幸福に役立てようとする熱意のある人物の育成こそだいじである。


これは決して知識の問題ではない。感情の問題である。


かつては、人間の知識が進めばおろかな戦争なぞしなくなる、と考えられていた。

第一次世界大戦は「戦争を終わらせるための戦争」といわれた。そしてもうこれで戦争はおしまいだと一般に信ぜられていた。

しかも二十年後には、それよりももっと大きい第二次世界大戦をひきおこした。そしてそれからさらに二十余年を経た今日、第三次大戦などおこらぬという証拠はどこにも見られない。 ー略ー


このような時代に、今まで通り知育万能の教育をつづけていてよいであろうか。

ここに当然、教育の根本的革新が必要になってくる。科学に対する高度の研究は一部の専門家に任せておいてよい。

一般の人々のためには、人間性を尊重し、これを善導する感情の教育こそ必要である。


今までの教育においては、感情は抑えられ、もっぱら理性的であるように教育されてきた。

その結果はどのようなことになったか。

抑えられた感情ははけ口を求める。その結果は愛であり寛容であるべき感情は、憎悪となり支配欲となる。

あらゆる人と人との争い、社会悪、戦争などは、ここに誘発されることになる。

ある人は、それだから道徳教育・宗教教育が必要であるというかもしれない。

しかし今日の道徳教育・宗教教育は、人間本来の人間性を抑圧し、そのよさを育てることに役立たない。目的と反対の結果を生み出しているのである。


そこでこのような抑圧を去っての感情の解放こそ必要である。】


全国学力テストをどうするとか、学力向上のために放課後まで学校で塾講師が授業するだとか、そういうニュースを見るにつけ、「そんなことをしている場合じゃないでしょ!」と叫びたくなります。


ニイルがしてきた教育、霜田氏のことば、多くの人に届けたいです。


続きはまた次回・・・。

| | コメント (0)

2009年6月 9日 (火)

新版 ニイル選集

【問題の子どもというものは決してない。あるのは問題の親ばかりだ。

これは、完全な真実とはいえないかもしれない。しかし、ほとんど完全な真実といってよい。たいていの場合、子どもが問題の子どもになるのは、親が子どもとは何かを理解していないからである。そうでなければ、親自身が自分を理解していないために、問題の子どもが生まれるのだ。】 『新訳 ニイル選集 2 問題の親』より

『問題の親』の、この冒頭部分が、特に好きです。


この本を初めて読んだのは、確か、1999年の秋頃だったかな。その年の7月にきのくにに見学に行って、掘さんに恋に落ちて(?)、息子たちもきのくにが気に入って、転入希望の申し込みをして、以来、きのくに、ニイル関係の本を読みあさりました。


その中で、特に気に入って、何度も読んだのが『問題の親』。


ぐさっとくるタイトルだけど、子どもを叱り飛ばしてしまうのも、すぐイライラするのも、それは子どもが悪いんじゃなくて、私のほうに問題があるのではないか、ということに、なんとなく気がついていたので、受け入れやすかったのかもしれません。


読み終わった当時、なにをどう受け止めたのか、はっきりとは覚えていないのですが、自分の「無意識」の存在を、強く意識したことを覚えています。


子どもに対して、すぐイライラしてしまい、支配的になってしまう自分が、ほんとうは、自分自身に腹を立てていることがわかったのです。私は自分のことが嫌いだったのです。

子どもの頃から「おりこう」で、きちんとしていて、賢い子。そんなふうに育てられ、見られてきた自分が、なんとなく苦しくて、でも、やっぱり、子どもには、そういう理想を求めてしまっていました。だから、その理想からはずれると、なんとなく不愉快になってしまうのです。


2000年9月15日の日記には、こんなことが書いてありました。Fがきのくに転入半年後のことで、4年生のときのことです。工務店というプロジェクトに入っていました。


「四季工務店。(*工務店というプロジェクトで子どもたちがつくった本)Fくんの文章は二つしかない。しかもそのうちのひとつは口で言ったものを○○(担任)が書いてくれたそうだ。それを聞いて不甲斐なく思う私。まだまだだね。どうしたらいいのか・・・。」


今なら笑えるんですが、当時は、「すばらしい文章をどんどん書く子」っていうのが理想で、でも、きのくにに出会って、ニイルの本も読んで、自分のほうがおかしいんだ、ということもわかり始めてて、でもやっぱりすぐには変われない自分が情けなく・・・という状態だったんですね。


ニイルの本を読んでから、子どもの心理、というものに、深い関心がいくようになりました。


2001年3月3日の日記より (Fが5年生 Nが3年生のとき)

「寮に電話したが、子どもたちはかえって寂しくなってしまったみたい。かけなきゃよかった。子どもって、“声が聞けてうれしい”なんて思わないものなんだ。」

*この日は土曜日で、長期中の週末なので、ほとんどの子が帰宅してしまって、閑散とした寮になるのです。現在は長期滞在生も増えて、にぎやかな週末のようです。


なんとなく、自分(親)の満足よりも、子どもの気持ちを考えようする姿勢がみられます。←自己評価(?)


『問題の親』の153ページのこの部分↓にも、しっかり付箋がはさんであったので、多分、当時、こういうところにも目を開かされて、私もだんだん変わってこられたのかなあ、と思います。


【生徒の母親の一人から手紙が届いた。家から学校にもどって一週間にもなるのに、まだ何の便りもない、というのである。母親は、「どうか、毎週何曜日と日を決めて、手紙を書かせるようにしていただきたいのです」と書いてきた。今夜、私は次のように返事を書いた。

「しかし、なぜなのでしょうか。どうして、自分の意志で書いたものでもない手紙を、そんなに大事にされるのですか。それでは、どうしてもウソの手紙にならざるをえません。お子さんが自分から進んで手紙を書こうとなさるまで、しんぼう強く待っていただくよりほかはありません。」

私は、これまでずっと次のように大声で叫んできた。もうそろそろいやになっている。

「どうか、お願いですから、子どもさんにあるがままの子どもでいさせてあげてください。子どもは、自己中心的なエネルギーのかたまりなのです。自分のしたいことに熱中しています。お母さんやお父さんを喜ばすために、偽善的なことをする余裕はないのです。」】


ニイルさん、すごい。こんなふうにど〜んと、はっきり書くことろこが好きです。(本の中でも太字なんです!)そのうえ、同じような話しを掘さんの講演会でも聞いていたので(この話しはまた後日)、すごく説得力がありました。


本の中には、目からウロコが落ちるような話しがいっぱいです。私が買ったときは、一冊4200円だったのですが、お手頃価格で、出ました!『新版 ニイル選集』 黎明書房さんから。

全部で5冊ありますが、1冊2520円〜2940円ですので、ずっとお求めやすくなっています。


子どもの心を深く理解するには、必読です。実は、私も、全部は読んでいないので、持っていないもの、発売され次第購入しようと思っています。


刊行の案内チラシが、昨日、きのくにから届いたので、お知らせまで、宣伝文、載せておきます。

【ニイルの思想を学び、子どもと共に笑う幸福な教師になろう!

ー最もよい教師は子どもと共に笑う。 最もよくない教師は子どもを笑う。 (A.S.ニイル)

今日の困難な教育状況を救う、愛と自由と創造の教育を貫いたサマーヒル学園の創設者、ニイル(1883〜1973年)の教育思想のエッセンスを5巻に集約。
*本選集は、1995年に刊行された『新訳ニイル選集』(全5巻)の新装・普及版です。】


5巻とは、『1 問題の子ども』『2 問題の親』 『3 恐るべき学校』『4 問題の教師』『5 自由な子ども』です。

『問題の子ども』は刊行済み、『問題の親』は6月刊行予定、他は、順次、10月までに刊行予定です。

「愛と自由と創造の教育」っていいですね〜。黎明書房さん、ありがとうございます!

あ、そうだ、これらのニイルの本は、きのくに子どもの村学園の掘さんが翻訳しています。すごいな〜。
堀さん、ありがとうございます!

| | コメント (0)

2009年5月22日 (金)

ニイルに学ぶ

きのくに子どもの村学園のなかに、「きのくに教育研究所」という部署(といっていいのかな?)があって、冊子を出版したり、シンポジウムを企画したりしています。

今、私が読み返しているのは、その、「きのくに教育研究所」が1999年に出版した『ニイル研究ー特集・ニイルに学ぶ』という本です。

この中には、現在きのくにのスタッフをしている方々の文章も載っています。正直な言葉の数々に、「ああ、こんなふうにして、ニイルを学んで、子どもたちと接しているから、きのくには、あんなにあったかいんだなあ」と思いました。

現在も、学園内での研修や、イギリスへの研修旅行などで、スタッフは研鑽を積んでいます。


『ニイル研究』の中から、すてきな文章、少し抜粋します。


【ー前略ー 学生時代、教育というのは、教師から子どもに与えなければならないものだと信じていた。子どもが大人によって準備されたものを、とにかく退屈しないで、忙しく取り組む姿。休みなく鉛筆を走らせ、手を挙げたりして活発にのぞむ姿が見られる授業。

こういう授業を教師はしたいと考える。そして、何もしないでいる子は注意をする。それは怠けであり、学校ではいけないことであるはずだからである。

しかし、クラスの中には、みんなと同じペースで進められない子がいて、どうしても時間を持て余す。楽しい活動をする時でも、生き生きした子どもの後ろには、参加できない子、フラフラしている子がいる。

私は、こうした子は、どうしたら生き生きと授業に参加してくるのだろう、と考えていた時期があった。

堀さんと共に参加した旅行で、サマーヒルへ行った時、ゾーイが言った。

「フラフラしている子、何もしない子はサマーヒルにもいます、でも、私たちは、『何もしない』という、そのことに意味があるのだと考えています。」

私は、「何もしない」ということは、進歩や成長がない、ということだと思っていたが、何もしないことを、成長の一つ、もしくは成長の過程なのだと考えると、心の中にあったモヤモヤしたものが吹き飛んでいったような気持ちがした。


教師は皆、子どもが活発であったり、意見を言ったり、文章をたくさん書いたりするのを見て、安心するはずだ。そうでない子がいると、焦ってしまう。

しかし、今、ここにいる子の気持ちが熟していなければ、どんなに楽しい活動を用意しても、子どもには響かないのだ。その時、教師は無力である。子どもに猶予を与え、待ってあげることこそ必要とされる場合だってある。

きのくにでの5年間で、ニイルの言うように、教育というのは焦ってするものではなく、子どものそばにいて、気長に待つことが大切だということ、そして、今まで家庭において、また、学校において、自分自身であることを許されなかった子にとってはなおさら、たくさんの時間を与えてあげなくてはいけないということを実感した。】
(*ソーイさんはニイルの娘で、現在サマーヒルスクールを運営しています。)


この文章を書かれたスタッフには、うちの息子たちも大変お世話になり、ほんとうに暖かく見守ってもらいました。今思い出しても、じ〜んと、胸が熱くなることが、いろいろと浮かんできます。


他のかたのも、全部載せたいくらいなのですが、我慢して(?)あと一つだけ、抜粋します。


【“ニイル”を知ったのは8年前。運良くきのくにで働くことになってからだ。それまでは、全く知らなかった。

きのくにでニイルのことをいろいろ知ることができた。最初は、正直いってニイルのたくさんのことばを受け入れられないのではなく、どういうことなのか理解できなかった。

でも、8年きのくにで生活し、子どもと関わりを持って、少しはわかってきたように思う。

また、自分に子どもができてからもより一層、気をつけないといけないことや、もっと勉強しないといけないことに気づいた。例えば、日頃の会話の中で、可愛さのあまり、「パパのこと好き?」と尋ね、「うん、好き」と言うまで、平気で連発していた、その他にもいっぱいある。

こういう日常の平凡な会話でも、子どもに負担をかけることなど、ニイルやきのくにに出会っていなければ、何も気づかずに通りすぎてしまったことだと思う。 ー後略ー】


うんうん、と、うなずきながら読んでしまいました。私も、これまでの、子どもとの会話で、思い当たることがたくさんあります。


こういうニイルの思想をスタッフがしっかりと学んでいる学校って、なんて安心感があるんでしょう。


私もまだまだ勉強しなくちゃ!

| | コメント (0)

2009年5月12日 (火)

問題の親

このあいだ、Fが、「俺、ニイル、読んでみようかな」というので、びっくりした。

「ニイルはきのくににとって、大切な人なのに、今までちゃんと読んだことがなかったから」だそうな。


そう、A.S.ニイルは、きのくに子どもの村学園にとって、なくてはならない存在。きのくにの学園長の堀さんが学生時代、ニイルのつくった自由主義の学校、『サマーヒルスクール』に感銘を受け、研究し、訪問し、多大な影響を受けて、きのくにをつくったのだから。


堀さんは、ニイルの本を、たくさん翻訳している。

私も、きのくにと出会ってからニイルのことを知り、何冊か本を読んだ。

「こんなに子どもの心理を洞察できる人がいるのか!」と、とても驚いて、子どもの見方が変わったし、自分自身の心のありかたが、すごくかわったと思う。


でも、ここ数年、ニイルの本を読み返すことなく過ぎていたことに気がついて、また、手にとってみた。そして、読み返し始めた。

やっぱり、ニイルって、すごい!


そうだそうだ!って言いたくなったところ、ちょっと、抜き出してみましょ。


【心配性の親たちは、しばしば次のような疑問を表明する。これは、私が講演をした後でよく出される質問のなかにもあらわれている。


「でも、子どもたちは、大人になってから気が変わって、どうして勉強するようにもっと強制してくれなかったのか、といって私たち親をせめないでしょうか?

たとえば音楽です。もし子どもが七歳の時に練習するようにいわれなかったら、二十歳になった時、どうして熟練の演奏家になれるでしょうか。子どもたちが私たちに面と向かって『どうして無理にでも練習させなかったのか』と叫んだりしたら、どう答えたらいいのでしょう?」


ー略ー 私は次のように答えた。


「あなたのお子さんに音楽の才能があるなら、五歳のときにピアノを弾くでしょう。やめさせようと思ってもやめないでしょう。もし、あなたのお子さんに音楽の才能がないとすれば、たとえ強制的に練習させたところで、世の中の人は、特別にありがたいとも思わないでしょう。

たしかに親が強制的に練習をさせなかったからといって、子どもが親に恨みを抱くようなケースもないとはいえないでしょう。

しかし、そのような不満を抱くような子どもが一人いたとしても、そのほかの何千という子どもが音楽の授業に抱いている不満と憎しみとを天秤にかけてみてください。


それだけではありません。


子どもが親に対して、ピアノを練習するように強制してくれなかったといって恨みを抱く時、ほんとうはピアノは象徴にすぎないのです。

『ピアノを弾くように強制してくれなかった・・・』というのは、『ぼくが人生でうまくいかないのは親のせいだ』という意味なのです。弱い人間が責任を他人に転嫁するときによく使う手なのです。」
ニイル選集 ② 『問題の親』 より ( 黎明書房 )


たしか、当時も感動して読んだと思うのだけれど、息子たちがきのくにで育った今読み返すと、よりはっきりと、ニイルの言うことが理解できる。


Fは、今、クラシックギターで身をたてるべく、練習に励んでいる。本格的にはじめたのは、14歳と、この世界では、遅いスタートだった。おまけに、きのくにでは、いわゆる、『音楽の授業』というのもないので、楽譜もよめなかった。

それが丸三年が過ぎたいま、ソルフェージュの先生にも「大進歩!」と言われるほどで、演奏のほうも、ぐんぐんよくなっている。簡単なものなら、編曲もこなすようになった。

とにかく本人が、ギターが好きでたまらないらしく、ものすごく集中して練習する。


ニイルの文章は、ときに、過激な感じがすることもあるが、私は大好き。


しばらくは、ニイルの再読で楽しもう。

| | コメント (2)