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2009年12月24日 (木)

許せばいい

『身近な人の名言・格言、今年の受賞作を発表!』という記事が、先日の新聞に出ていました。

そのなかで、黛まどか賞をとった、39歳の主婦のかたの『名言』が、とても心に残りました。


【現在中1の息子が5歳の時のことです。ある日、何度注意してもいたずらばかりするので、父親が怒りました。

「口で何べん言っても、たたいてもわからんのなら、お父さんは一体どうすればいいんか!?」

息子は涙をぽろぽろ流しながら一言。


「許せばいい」


小さなことをいちいち怒るなという事か?と家族みんなで大笑いでした。】


大笑いしてくれるような家族で、よかったですね!


実際私も、今思えば、怒らなくてもいいようなことでいちいち怒っていたな〜、ということがたくさんありました。

周りの人から「良いお母さん」、と思われたくて、小さなことで息子を叱ったり、自分が他のことでイライラしてたものだから、つい、普段だったら怒らないようなことなのに、声を荒げたり。

きのくにと出会って11年、息子たちに小言を言う事が、ほんとうに減ったなあ、と、つくづく思う今日この頃。そして、息子たちは、野方図に、わがままいっぱいに育ったかといえば、とんでもない!すばらしくすてきに育っています!

(親バカも相当入っていますが、でも、きのくに保護者さんなら、この気持ち、わかってくださいますよね?)


さて、A.S.ニイルは『問題の子ども』の中で、このように書いています。


【子どもが求めているのは愛と理解である。善良なままで成長する自由だ。

子どもが善良なままで大きくなる自由、これをもっともよく与えることができるのは、本当は親である。

しかし、世界には困ったことでいっぱいだ。そんな婉曲的な言い方をやめてはっきりいえば、世界は憎しみであふれているといったほうがよい。

そして子どもを問題の子どもにするのは、親自身の心の中の憎悪である。それは犯罪者に罪を犯させるのが社会にしみわたった憎悪であるのと同じだ。


救いは愛にある。


しかし愛を強制できる人はだれもいない。だからもし世の中に希望があるとすれば、それは寛容を学びとることである。

おそらく寛容こそ愛であろう。しかし私にはよくわからない。

寛容を学ぶには、なによりもまず、自分自身に問いかけねばならない。

「寛容と慈善は家庭で始まる」というが、内省ことは、知恵の始まりとまではいわないとしても、寛容の始まりである。

問題の子どもをもつ親は、静かに腰をおろして自問自答しなくてはいけない。


「私は、子どもに寛容を示しただろうか。私は信頼を示しただろうか。理解を示しただろうか。

ー略ー

「なんとしても、人それぞれに自分自身の生き方をさせよう。」

人生においても、教育においても、これが私のモットーだ。これは、ほとんどの場合にあてはまる生き方である。

考えられる例外はひとつだけ、つまり強盗がナイフをもって歩き回るような場合だけである。

この態度こそが、ひろい心を育てる唯一のものである。これまで「ひろい心」ということばが思い浮かばなかったのは、どうしたことだろう。

これこそは、自由学校にふさわしい。


私たちは、子どもにひろい心を示すことによって、ひろい心をもった人間になるように導いているのだ。

心がひろいということは、寛容の心をもつということだ。】
 

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