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2008年9月27日 (土)

子どもの自由と限界

9月19日の記事『自由の限界』に掲載した、霜田静志氏の文章の続きです。


【子どもの自由は尊重しなければならぬ。いやがることを無理に強いるべきではない。子どもの欲することは、できるだけこれをとげさせてやる必要がある。

だが、さればと言って、子どもに自由にさせるために、大人はあらゆる不自由を忍んで子どもに奉仕するのであってはならぬ。何人も自分の自由に振る舞って差し支えはないが、ひとの自由を侵害する権利はない。

自分が風呂にはいりたくなかったらはいらないのはその子の自由であるが、母がはいろうとするのを妨害する権利はない。このことを学ばせることが真の自由を学ばせる道である。

然るにあの第三の母は、この大事な教育をしていないのである。これでは到底社会生活に適応しうる人物を育成することはできない。


多くの母は子どもに泣かれると、じきにそれに負ける。そのためにあたら愛児をできそこないにしてしまう。ルソーはあの名著『エミール』の中で、自分はエミールが我を張ってこれを通そうとして泣くときは決してそばへ行ってやらない。いつまでも泣かせておく。そして泣きやんだらそばへ行ってやる。

こうすれば子どもは、大人というものは泣く子はきらいらしい、泣く子は大人の相手にされない、ということを学ぶであろう、とこのように言っているが、何と多くの親たちはこの反対のことばかりしていることであろう。


彼らは子どもが泣きさえすれば、ことの如何を問わずそばに行ってやる。子どもが無理を通そうとして泣いているのであると承知しており、こういうのを通さしてはいけないと知りながら、泣かれるとうるさいもので、つい負けてしまう。こういう母に限って、叱ってみたりご機嫌をとってみたり、おどしてみたりすかしてみたり、数々にやってみて、それでも泣かれると、最後にはまけてしまう。


いけないことはいけない。できないことはできないと言いきって、泣いてもわめいても、かまわんでほうっておけばよいのに、それができないのである。

この辛抱ができないために子どもを損ない、後になって、どうにも手のつけられぬようなわがまま者を作り上げてしまうのである。


こういうと、子どもにはきびしくすべきである、叱ることも必要である、と言っているかに思われるかも知れぬが、そうではない。


叱るのでなしに、この教育をしっかりやるべきであるというのである。


わがままを言うときには、これを叱りもしない、ご機嫌をとりもしないで放っておく。ただ大人の自由を侵害しようとするときは、そのようなことをさせないように斥けるのである。これも叱って斥けるのでなしに、その限界を知らしめるように導くことである。


前号の『心理の開眼』のところで、4才のヘレンがマントルピースから置き時計を取ろうとした話しがでている。ヘレンの母はこれをガミガミ叱ったが、こういう場合あなただったらどうするか、とニイルはきかれて、それをとめるのは自分だって同じである。ただ違うのは、多くの親がそれは悪いことだからやめろと言うのに反して、自分は悪いとは言わない、それをされては大人が迷惑するからやめてくれ、と言ってとめるのだと言っている。


叱る教育と叱らぬ教育の違いがそこにある。


前者は権威をもって子どもに臨み、教訓を与えて子どもを善良ならしめようとするのであるが、後者はそのようなことをしないで、子どもに自由に振る舞わせておきながら、自由の限界を知らしめて、社会的な正しい態度のできるように指導するのである。】
(霜田静志氏復刻選集 第1集 p40-41より)


息子たちがきのくにに転入して、最初の1、2年(もっとだったかな?)は、お風呂も毎日入るわけでなく、洗濯もろくにしていませんでした。靴下なんて、ず〜っと同じの履いてる。

だから、空港まで迎えに行っての帰り、車の中で彼らがリラックスするために靴を脱いだりすると、ものすごいニオイが!

で、私、言いました。

「あのね、足がすごいにおいだから、飛行機の中では絶対靴ぬいじゃだめだよ。他の人の迷惑になるからね。」smile


自由教育がどういうものかを知らなければ、こうわめいていたでしょう。

「あんた、全然お風呂入ってないね!洗濯もしてないね!今度きのくに行ったら、必ず毎日お風呂入りなさいよ。洗濯もちゃんとしなさい!もう、すごいにおい〜。寮母さんにも、ちゃんとお風呂はいるように言ってもらうからね!」って。shock


*霜田氏の文章、とてもわかりやすいですが、それでも、何度か繰り返し読んでいただきたいです。繰り返して読まないと、肝心なところを見落としてしまうでしょう。

子どもが何か、つらかったり悔しくて泣いていて、親にそばにいてほしい気持ちのときにも、「子どもがわがままになる」とばかり、突き放してしまうのは、自由教育ではありません。文中にも、「エミールが我を張ってこれを通そうとして泣くときは」と書いてあります。(言わずもがな、だったかもしれませんが・・・。)


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2008年9月22日 (月)

ストレスを減らせば・・・

先日の、霜田静志氏の文章「自由の限界」、いかがだったでしょうか?

「じゃあ、実際、どうやって子育てすればいいのよ〜」とストレスのたまったかたがいらっしゃったらごめんなさい。続きがあるんです。ちょっと長いので、今週後半くらいにまたアップします。今日はその前に、別のことを少し書きたいので、霜田氏の文章はいましばらくお待ちください。


まず、まいさんのブログにうれしい記事がでていましたのでご紹介します。↓

http://kokoro-no-jiyuu.blog.so-net.ne.jp/2008-09-22

きのくにの教育に触れて、その良さに感銘を受けてくださるかたがいるのは、とても心強いことです。そして、きのくにの、自由主義教育を子どもにプレゼントするということは、とても大きな意味があると思うのです。霜田氏の文章を読むと、よくわかります。(追々ご紹介していきます。)


さて、昨日はこちら(大分県)では小学校の運動会が開かれたところが多かったです。しかしあいにくの雨。私が住む町の小学校も、結局途中で中断し、続きを今日の午前中行ったそうです。


FとNも少しだけ地元の小学校に行きましたから、運動会の経験もしました。

仕事していると、雨で運動会が延期になる、って、親にとってはものすごい負担になるんですよね。おまけに二人の子どもが保育園と小学校にわかれていたりすると、どちらか一つでも延期になると、もう大変。とにかく予定通り終わってくれることを祈るばかりでした。

微妙な天気のときは、爆竹が鳴る早朝まで、「お弁当つくっちゃっていいのかな〜」と迷ったり、延期になったときは、既に予約の患者さんが入っているから、全然見に行ってやれない、という状況に胸をいためたり。


きのくにの運動会は、雨の場合は体育館を使って、別メニューにしたりして、とにかく予定の日通りに行われますので、そういうストレスから一気に解放されました。

これは、親にとってはとても助かります。こういうところでストレスを感じなくて住むのは、ほんとうにありがたいことです。


他にも、「忘れ物」の心配をしなくていいし、日々の宿題はもちろんのこと、夏休み、冬休みの宿題がないので、「ちゃんとやってるの?」「間に合うの?」と親が焦る必要もありません。たっぷりの時間を、ゆったりと過ごせます。だから親もイライラしなくてすみます。・・・というのは、ひらおだい四季の丘小学校の保護者さんも書いておられます。↓

http://blog.goo.ne.jp/quattro-stagione-collina/e/7bfbc1784b5a7aaaf650b5251d47b438


親のストレスが少なくなると、子どもへも寛大に、やさしく接することができます。

親がやさしく、ゆったりとしていると、子どもも落ち着きます。良い循環が生まれます。


巷では、学力低下がすごい大問題みたいに騒がれ、全国一斉テストなど、大人は右往左往しています。何がそんな大問題なんだろう、と不思議です。(それより、温暖化のほうがよほど大ごとなのではないでしょうか?)

大人がますますイライラして、子どもに対してゆとりがなくなっているように思います。


大人のストレスを減らす教育にしたほうが、子どもも幸せになると思うんだけどなあ。

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2008年9月19日 (金)

自由の限界

先日たまたま買った本に、きのくに子どもの村学園のことが載っていて、びっくりしました。

著者は法政大学教授で教育評論家でもある、尾木直樹氏の『いじめ問題とどう向き合うか』(岩波ブックレットNo.695)。

以前きのくにがある番組で紹介されたときにコメンテーターとして出演しておられ、そのときに映されたきのくにでのミーティングの様子に言及しておられました。その他の部分も、「その通り!」と言いたくなるところばかりで、尾木さんの本に紹介されたのがうれしく、さっそくきのくににもお知らせしました。


そのとき電話で事務のかたとお話したのですが、そのかたは、以前尾木さんを含め数人が教育のことについて話す番組を見たそうです。「尾木さんていいこと言わはりますよね。」とおっしゃっていましたが、番組自体はひどかったそうです。

「子どもは叩かないとわからない」「びしびしやらないとダメだ」というような意見がほとんどで、尾木さんは孤立無縁だったとのこと。

現在の橋下大阪府知事(当時は弁護士?タレント?)も参加していたそうで、「私も子どもは叩いて育てましたが、いい子ですよ!」と尾木さんにくってかかる勢いで、とても嫌な雰囲気だったということです。


選挙でもなんでもそうなんですが、私が「同感!」と思った意見は、少数派なのかなあ。


早速、尾木直樹さんで検索してみましたが、やはり批判的な人が多いこと!

尾木さんでこんなに批判されるなら、戦争中に『叱らぬ教育』を唱えた霜田静志氏なんて、どうなっちゃうんだろう、と思って検索してみましたが、書籍の紹介くらいしかヒットしません。故人ですからしょうがないのかもしれないですが、現代人で霜田氏のことを知っているかたは、ほんとうに少なくなってしまったのですね。

かく言う私も、きのくにに出会わなければ、霜田氏のことを知ることはなかったでしょう。


霜田氏が出しておられた『愛育通信』をまとめた『霜田静志復刻選集』というのを読んでいるのですが、ほんとうにすばらしい文章で、私ももっと早くにこういう考え方に出会いたかった、と思うばかりです。

このブログを見てくださるかたのほとんどは、霜田氏のことをご存知だとは思うのですが、誰か一人でも、こういう子ども観、人間観、教育観に触れて、関心を持ってくださればうれしいので、ここでも、ときおり文章を紹介していきたいと思います。

以下、復刻選集1の39ページより抜粋いたします。


【自由の限界】ー昭和26年6月3日 第16号ー

三人の母

或るとき、三人の母が一緒に旅行に出た。この三人の母は、それぞれに5才から6才の、まだ学校にあがる前の子どもをつれていた。三人は温泉宿にくつろいで、さて風呂にはいろうという段になってみると、三人の子どもの態度がそれぞれに違う。

第一の母の子は、一緒にお風呂にはいろうと誘うと、喜んで母と一緒にはいった。

第二の母の子はすすめられてもいやだと言ってはいらない。お室で遊んでいるからお母さん入っておいでという。仕方がなしに第二の母はわが子をおいて自分だけはいりに行った。

ところが第三の母の子の場合はまた違う。この子は自分がいやだからと言って入らないばかりでなく、お母さん行っちゃいや、と言って母をも入らせない。


私はたまたまこの座に連なっていて、三人三様のこの様子を見て、三人の母の子どもの育てかたがわかるように思い、興味深く感じた。


第一の母の場合は、子どもはよく育てられ、よくしつけられていて、母と子の間がぴったりしている。まことにはたの見る目にも気持ちのよいものであった。


第二の母の子どもは、自分がはいりたくなかったら、いくら母が勧めたってはいらない、まことに個性のはっきりした子どもであった。第一の子どものように、すなおに母の言うことをきく子もよい子ではあるがーまた事実多くの親はこういう子をよい子とするのではあるがー言うことをきかぬ第二の子どもも、私には何だか頼もしい子どものように思われてならなかった。

自分のいやなものはいやと、はっきりした態度をとっている。それでいて母がはいろうとすることに対しては少しも邪魔しないのである。これは自己の自由を主張すると同時に、ひとの自由も尊重する、まことに好もしい態度である。

そこにはちゃんと自由の限界があり、その限界は守られている。第一第二の母は、いずれも子どもを上手にそだてており、しつけもちゃんとできている。こいうのは見ていても気持ちがよい。


ところが第三の母と子の場合は違う。これでは子どもはもう自由の限界を越え、わがままであり勝手である。自分が風呂にはいりたくないなら、はいらなくてもそれはその子の自由である。しかし自分がはいりたくないからと言って、母をはいらせない、という法はない。「お母さん行っちゃいや」と言って泣いて母を困らせるのは、「泣く」という武器によって母を征服しようとしているのである。


「この子はいつもこうで、本当にしょうがないんですよ。」と母は弁解して、あたかもその子のこのような性質は、生まれつきのもので、どうすることもできぬもののように言っているのだが、実は母親の育てかたが間違っていたために、このようにしてしまったのである。

このような子どもの態度を許しているのは、明らかに自由をはきちがえているのである。少なくとも自由の限界を忘れているのである。

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2008年9月15日 (月)

兄弟でなごやかに

12日(金)にNが帰宅しました。帰宅したのは夜の11時過ぎ。

次の日(13日)はゆっくり寝て、午後からお父さんと市内まででて、髪を切ったり本屋さんに行ったりして過ごしました。

14日は朝9時半から夜9時過ぎまでバイト。しっかり稼ぎます。

15日は朝から16時くらいまでバイトして、19時のバスに乗って福岡にでて、そこから22時30分の夜行バスで大阪へ。そしてきのくにの一週間が始まります。


きのくにへ行きはじめた小学校低学年の頃は、帰宅したらひたすらのんびりゆっくり、だったのに、いつのまにかタフになって、忙しくなってきました。


Fはどうしているかというと、Nが帰宅する前から福岡で古楽音楽祭のコンサートを聞き行き、その翌日13日には下関から船で数十分の、小さな島で、演奏のお仕事。ギターの先生が関わっている小さな演奏会に、フォレストヒルギターアカデミーの専門家コースの面々でだくさんの曲を演奏したそうです。なんと、ギャラも出ました!

そんなこんなで、FとNが会ったのは、14日の夜。バイト先までNを迎えに行って、そのまま温泉へ。(毎晩共同浴場の温泉に入りにいくのです。)

FとNが、なごやか〜に話す様子に、ものすごく幸せな気持ちになります。

「今日はバイト忙しかったやろ」とか、「島の住民全部が聞きに来てくれたんで。で、住民全部って、いったい何人でしょう?」とか。

Nが一人で遅い夕食をとるそばで、Fがいろいろとコンサートの話しなどをしたりして、二人で楽しそう。


こういうのが普通は当たり前なのかもしれないけれど、私は、自分が育った家庭環境を考えると、ものすご〜く感動してしまいます。

三歳違いの姉と、いつも比較して育てられたから、いつの頃からは、姉とは普通に話しが出来なくなりました。

親といても、会話をする、というより、一方的になにか指示を出されるとか、成績のことでぶちぶち言われるとか、知り合いのうわさ話(誰がどんな大学に行っただの、医者になっただの)とか、そんなことが主体だったので、家族といるのが苦痛でした。


今、自然に話しをする二人を見ていて、
不思議です。そして、幸せです。

兄弟が普通に日常会話(?)をしているのが。
高校生の息子もそろって、みんながリビングに集っているのが。


子どもたちがまだ小さかったころ、周りの人に、「かわいいの、今だけよ〜。そのうち親と話しもしなくなるわよ〜。」とか「うちの子は、食事が終わるとさっさと自室にこもっちゃって、なにやってるんだか。」という話しを聞かされていました。

私自身がそんなふうでしたから、うちもそうなるのかな〜、いやだな〜、と思っていたけれど、ならなかった。
思春期特有の、イライラした時期もあったけれど、それほどでもなかったな。


兄弟でなごやかに話す様子を見て、「あ〜幸せ!」とつぶやいています。


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2008年9月12日 (金)

その4

過去のコメント掘り起こしも、今回で一区切りです。

ここで取りあげさせていただいたみなさま、ありがとうございました。また、いつも読んでくださるかた、コメントしてくださるかた、ほんとうにありがとうございます。

私も改めて読み返しながら、あのコメントのように考える大人が増えてくれば、たくさんの子どもたちが、もっと幸せになるのになあ、と思いました。


では、最後は、
○通りすがりのおやじさん、さんのコメントです


子ども    ドロシー・ロー・ホルト 作


 批判ばかりされた子どもは 非難することをおぼえる

 殴られて大きくなった子どもは 力にたよることをおぼえる

 笑いものにされた子どもは ものを言わずにいることをおぼえる

 皮肉にさらされた子どもは 鈍い良心のもちぬしとなる

 しかし、激励をうけた子どもは 自信をおぼえる

 寛容にであった子どもは 忍耐をおぼえる

 賞賛をうけた子どもは 評価することをおぼえる

 フェアプレーを経験した子どもは 公正をおぼえる

 友情を知る子どもは 親切をおぼえる

 安心を経験した子どもは 信頼をおぼえる

 可愛がられ 抱きしめられた子どもは

世界中の愛情を感じとることをおぼえる


スゥエーデンの教科書に載っている詩です、いい詩ですよね。

はじめましてmamiさん、時々訪問させていただいております。
スゥエーデンをはじめヨーロッパの多くの国では、親でも体罰(暴力)が禁止(法律で)されています。

だからと言って決して甘やかされてるのではありませんし、ちゃんと立派な社会人になっています。
スゥエーデンでは、日本のように型にはめ「教える」教育はせず、子どもが自由に伸びるにまかせ、大人は子どもが伸びられるような環境を整える役割を担っています。

授業もみんなで議論をしてすすめる、自分で考えることを重視する教育です。

私も、自分ではあまり憶えていないのですが、子どもをたたいてしかったことがあります。
最近、20歳になる子どもがその時のことを憶えていて、「なぜ、怒られているのかわからず、ただ怖かっただけ」だったと言っていました。

その時の自分自身の心理状態を今考えてみると、自分の言う事を聞かない(自分の思い通りにならない)ことに対する怒りを子どもにあたっていただけだったように思います。

子どもに特定の基準を「良いもの」として押し付け、その基準からはずれると「悪いもの」と、子どもの個性を見ることなく「自分の子どもはこうあってほしい」という思いが勝手に親の愛情と思いこんでいたように思います。

最近、日本の教育が子どもの個性を押さえ込み、子どもが自由に考えたり、話し合ったり、協力しあったりすることがやりにくい方向に進んでいることに不安を感じます。
 
きのくにでは、校則などいろんなことを大人と子ども全員の話し合いで決めると聞きました。
いじめの問題も子どもたちが話し合いで解決しているところをテレビで見たことがあります。

きのくにのような学校がもっとたくさんできるといいですね。応援しています。

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2008年9月11日 (木)

その3

6月19日の記事『しつけと体罰』↓へのコメントから、二つアップ致します。

http://kinokuni-daisuki.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_2200.html#comments


○むさしさんのコメント

mamiさんに、共感しつつも、「体罰絶対反対」と声高に言えないのは、自分の子育てを振り返って、実は、手も出したし、怒鳴ったり、脅すような言葉の暴力も日常茶飯事だったからです(きのくにに出会うずっと前のこと)。
そして、今そのことを振り返り、「あんな方法でなくとも、もっとやりようがあったのでは・・・」と後悔しています。

手が出たり、怒鳴る時、「この子がきちんと成長するために、心を鬼にしてあえてそうしている」とか「しつけのためにはこのくらいの体罰が適当な度合いだ」とか、そんな冷静に分析して、自律的に出来るものでしょうか。

たいていの場合、「人に見られてどう言われるか」みたいな思いや、自分のペースが乱されることへのイライラが、引き金ですから、自分の側の要因でエスカレートしがちです。

体罰を、しつけの方法として、適度に使いこなすような上級テクニックは、私には無理。コントロールできない手法は使うべきでなかった。一生懸命、育ててきたけど、結果的に子どもをとても傷つけてきてしまったかも知れない・・・そんな気持ちです。
  
 中略

それと、書いてきたことと相反するかもしれませんが、人間ですから、子どものことを深く思ってる親御さんが、つい手が出ることがあって、それを気にしすぎて自分を責めてしまって悩んでいるとしたら「大丈夫、そんなに気にしないで」と言ってあげたい思いもあります。


○くるくるさんのコメント

毎日の生活で、特に意志の疎通がままならない頃の子どもと暮らしていれば いろいろな場面で、選択→即決断の連続です。理屈より咄嗟に手がでたり、無理やり大人の判断に従わせてしまう事もあるかと思います。

けれど・・今私は大好きな伯父と別れ、動揺し乱暴な言い方だったり相手を尊重することが疎かになっています。これは私の心の状態が招いた事です・・我が子は許してくれますが、それは子どもにとって必要な存在だから。世界で一番大好きと言ってくれるからと甘えてはいけない。私の主張に従わせられたとしても、傷ついた目を見て自己嫌悪です。正論を言ったとしても心に残る効果はゼロに限りなく近く、怖いだけですね。

やっぱり心の余裕は たいせつ、そして どうしても避けられない状況や押さえきれない感情があるのも現実。

むさしさんのお話の中の
>コントロールできない手法は使うべきでなかった。
この言葉は、とても響きました。

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2008年9月10日 (水)

その2

昨日に引き続き、過去のコメントのアップです。


○さんちゃんさんのコメント


22年近く前に第一子を出産しました。
その当座は赤ちゃんが泣いている理由がわかりませんでした。眠いか、空腹か、暑すぎか、寒すぎか、たいくつか … など、

夜泣きがひどい時期には「なんでこんなに毎晩毎晩泣くのか?」とイライラしました。

でも、時が経って、子どもは理由もなく際限なしに泣くのではないことがわかりました。理由もなく反抗的な態度をとるのではないことも。

生まれてすぐは日本語は通じないように大人は感じても、心は通じている。赤ちゃんの言っている(泣いている)意味がわからないイライラ感なんかは感じとっているのが、子どもが話せるようになるにつれて、だんだん深く、私がわかるようになりました。

親がイライラしないでこころ安らかだとそれだけで赤ちゃんや幼児が落ち着くことを体験することで親としての自分が少しずつ成長してきたと思っています。

自分が言葉の通じない世界に突然放り込まれたと想像すると、どのようにしてあげれば不安が少ないかということがわかると思うのです。そこからしつけが始まります。

新聞記事にある『体罰は即効性はあってもほかのしつけ方がわからなくなる』子ども共に育ってきて、この言葉には、まったく同感します。

きちんと子どもを受容していれば、子どもはかなり小さい時から、話せばわかります。
もちろん、受容とは、子どもの言いなりになって、子どもを好き放題に放置するのではありません。

即効性のある方法を使わない、それに頼らないほうが、子どもとより深く向き合え、子どもを深く理解できるようになると思います。そして、その即効性のある方法に頼らないことで「受容」ということの深い意味もわかってくると思うのです。

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2008年9月 9日 (火)

コメント掘り起こしーその1

少し前の話しになりますが、2008年6月19日の記事『しつけと体罰』に、たくさんコメントをいただきました。

どれもありがたいコメントなのですが、特に、このまま埋もれてしまうにはもったいない、と思えるものを、これから数日間、記事としてアップしたいと思います。

同6月23日の『大人の問題』中で触れましたように、koyamaさん、さんちゃんさん、むさしさん、くるくるさん、通りすがりのおやじさん、以上のかたのコメントを転載させていだきます。
特に私の意見は付け加えませんが、その当時の前後の記事中には触れていると思いますので、ご関心のあるかたは、そちらもご覧ください。

ここでアップした以外にも、すてきなコメントがたくさんあります。最近、このブログを知った、というかた、お時間かかりますが、どうぞ、ぼちぼち、過去の記事やコメントなど、お読みいただければうれしいです。


○koyamaさんのコメント


私も息子が幼い頃は「躾のなかの体罰」は時と場合によっては、やむをえない・・・と思っていた時期がありました。

手をあげてしまって、後で落ち込んだり、「よその子やったらほっとけても、自分の子やから、あかんことはわかってもらいたいんや。だから・・・。」と自分自身に言い聞かせたり、「愛情があるから怒るねんで」と息子に話したこともありました。

しかし、今は違います。子どもと向き合い、きちんと話し合いすることで、体罰などなくても幸せに解決するということができる事を実感したからです。

子どもは自分の事を信頼してくれる大人(親)のいうことは素直に耳を傾けてくれます。「なんで?」って思う事があったら、その「なんで?」を子どもと対等に話し合える関係になっていったからです。

私は以前、「体罰」「言葉での暴力」に傾く時は、大人(親)に時間が無い時、心に余裕がない時などに、自分(親)の言い分を無理やり通そうとするあまり、つい、感情にまかせて、咄嗟に出てしまう→悲しい気持ちになっていました。

同じように子育てしている親御さんからも同意見の方が多かったです。

しかし今は、子どもが納得していない(なんでそうなのか理解できない段階)と思った時は、愛のムチではなく、「なんでそう思うんかな?」って、相手の話を聞いてあげる『心のゆとり』を先に親がみせる。すると、子どもも親の言う事を理解しようと耳を傾けてくれるようになっていって、双方の気持ちも楽になり、叱ること自体、ほとんどありません。

場合によっては、子どもの理屈のほうが通ってる時もあります(笑)。


「きちんとした躾」ってなんだろう?
他人から見た「きちんとした」だったら、場合よって、要らないものもあるかも?
それより、「我が家にとって」大切だと思う躾とは・・・?
「自分がいやなことを人にしない」
「人を傷つけない」などなど・・・。
おうちによってさまざまだと思いますが、
ひとまず、根っこの部分がしっかりしてたら、小さい頃に少々お行儀が悪くても、いずれ自分で気づいて良くなっていきます。
その為にもやはり「親は後ろ姿」を常日頃から子どもに見せてやりたい。と、背筋も気持ちも伸びる今日この頃です(笑)。

以上が「体罰、躾」に関する私の考えです(^^)。

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2008年9月 2日 (火)

知らぬ間に・・・

最近、二つの、息子に関する、新発見・・・? 


まず、Nのこと。

先日の、東京での法事からの帰りの電車の中のことです。夫の家族とともに、六人で電車に乗りました。始発だったので、席にゆとりもありましたが、ちょうど優先席の一角が6人そろって座れるので、通路を隔てて三人ずつそこに腰かけました。

しばらくして、私はうとうと。気がつくと、少し立っている人もでてきました。と、向かいに座っていたNが、席を立って、私のほうにやってきました。

どうも、前に立っていた若い女性に席をゆずったようです。そのかたがその席に腰掛けながらこちらを向いたのでわかったのですが、妊娠していたようなのです。私もとっさに、「気づかなくてごめんなさい」とあやまりましたが、そのくらい、おなかの出方が微妙だったのです。


後でNに、「あなた偉かったね。お母さんはあの人が妊娠してるって、全然気がつかなかったよ。」と言いましたら、Nは、こう言いました。

「そりゃあきのくにで重々言われてるからな、優先席には座らないって。だから、ずっと居心地が悪かったんや、あそこに座ってるの。で、あの人、ちょっとわかりにくかったやろ。妊娠してないのに席譲ったりしたら失礼やし。」


優先席には座らない、というのは、教師から指導されるのでなく、ミーティングで、電車内でのマナーを話し合ったときに決まったことだそうです。きのくにへの行き帰りだけでなく、普段から気をつけているなんて、自分たちで決めたルールだから、しっかり身についているのですね。


それにしても、「妊娠してないのに席譲ったりしたら失礼やし」という配慮にも、いつのまにか大人になったなあ、と感心しました。


次はFのこと。

Fは法事のあと、そのまま一人で山形の庄内へ行き、一週間のギターフェスティバルに参加してきました。参加者、講師の先生には、中国人、韓国人のかたも多くいらっしゃいましたので、レッスンや普段の会話には、英語が多く使われたそうです。

期間中は講師の先生のレッスンを受けることができ、Fが希望した先生の一人は韓国のかただったので、レッスンはすべて英語。

帰宅してから先生のレッスンのことをいろいろ話してくれたのですが、たしかレッスンは英語、Fは英語が苦手・・・。

「えっ?それ、日本語じゃなくて、英語で言われたんだよね。あんた、それわかったの?」とびっくりしてしまいました。

「うん、なんかわかるんだよね。話すほうはあまりできないんやけどな。やっぱり、もっと英語話せたらいいよな。勉強しよ〜!」ですって。

通信制高校の課題では、いつもふ〜ふ〜言っているのに・・・。好きなことのためなら、自然と吸収できちゃうのかな。


FもNも、私の知らぬ間に、いい感じ、に育ってます。

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