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2007年1月29日 (月)

教育再生会議

教育再生会議、連日新聞に出ていますが、ゆとり教育の見直しとか、授業時間数を増やすとか、奉仕活動の義務化とか、なんでこんなばかばかしいアイデアしかでてこないんでしょう。

「子どもが幸福な人生を送るために」、という視点がほとんど感じられない。ただ、管理しやすいオリコウサンをつくりたいだけのように感じます。(でも実際は、オリコウサンどころか、ストレスでふくれあがって、いつもイライラした人間を作ってしまうのに・・・)


そんなことを思っていたら、本日の朝日新聞朝刊9面に、胸のすくような意見が載っていました。


『時流自論』というコラムで、本田由紀氏(東京大学教育社会学助教授)が書いています。


まず、再生会議の提言の二点に対する反論です。

一点目の「授業時間を増大させて学力向上をはかる」ということに関しては、ある研究グループの調査から、授業時間数と成績との間に関連は認められない、ということを述べています。

そして二点目、「学力低下」がほんとうか、ということに関しても、調査結果をもとに、【現在の体制のもとでも、「学力低下」が直線的に生じているわけではない。日本の児童生徒の学力は、国際的に見ても総じて非常に高い水準を維持している】との見解を述べています。


そして、さらに付け加えているのが、下記の部分です。


【様々な調査結果で日本の児童生徒の顕著な特徴として必ず見いだされるのは、勉強が「好きだ」「楽しい」と答える者や、将来の仕事と結びつけて勉強していると答える者の比率が際立って低いことである。日本の教育の最大の問題は、子どもが教育内容に生活や将来との関連性や意義を見いだし得ていないことなのだ。】


「日本の子どもたちは、好奇心や学ぶ意欲がないことが問題だ」と話した教育学者もいます。


全く同感です。問題はそこなんですよね。

多くの子どもたちは、テストでいい点をとるため、通知表の評価があがるため、受験のため、に勉強します。学校や親が「やれ」というからやっている。先生が休んで自習になったら、大喜びする子どもたちです。そんな状態で、さらに授業時間を増やして、効果があがるとでも思っているのでしょうか?


そして、きのくに子どもの村学園の教育こそ、その問題を解決しうるのです。

卒業生の進路も、小中のプロジェクトで取り組んだことをもとに選んでいる子が多い、というのを聞いたことがあります。

ある子は、中学で三年間、「動植物研究所」というプロジェクトに取り組み、高校も、その分野のところへ進みました。

小学校から物をつくることが好きだった子は、中学では「道具製作所」というプロジェクトに入り、現在は高等専門学校の電子制御工学科に進みました。

その子は卒業後、「きのくにで自分のしたいことを見つけ、それができる学校を自分で選ぶことができた」と書いています。


教育再生会議で膨大な時間を費やして、お粗末な提言をするくらいなら、一度メンバー全員で、きのくに子どもの村学園の研究でもなさったらいかがでしょうか?


*朝日新聞の【時流自論】に【column@asahi.com】と書いてあったので、【http://column@asahi.com】で記事が読めるのかな、と思ったら、なにも出てきませんでした。どなたか、ネット上でこの記事を読める方法をご存知でしたら教えてください。


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2007年1月25日 (木)

言わずにおれなかった

予備校生の兄が妹を殺害した事件で、ご両親の手記が発表されましたね。

それを読んで愕然としました。いくら事件のショックが大きいといえ、この人たちは、今回の事件を、自分たちの問題としてはとらえていない。親である自分たちのことを全く顧みていない。自分たちが何をしてきたか、何をしてこなかったか、全然わかってない。


世間にお詫びを言う前に、まず、自分の子どもたちに詫びるべきじゃないでしょうか。


「亜澄ちゃん、素直に謝れない子にしてまってごめんなさい。お母さんがあなたの気持ちを十分わかってあげれなくて、ほんとうはすごくさみしかったんじゃないかな。お母さんはいつも世間体ばかり気にして、そのままのあなたを愛してあげられなかった。お兄さんにもあんな口のききかたをするような子になったのは、お母さんにも責任があると思います。ほんとうにごめんなさい。」


「勇貴くん、いつのまにかあなたを追いつめてしまっていたんだね。いくら怒りが爆発したからって、妹を殺してしまうなんて、きっと、長年の間に、耐えきれないほどのストレスがたまっていたんだね。そんなにストレスをためさせた原因はお父さん、お母さんにもあると思うよ。ほんとうにごめんなさい。これから一緒に生き直そう。」


私は、両親の手記が公表されたと知った時、こんな文章を想像しました。


ところが、自分たちのありかたを振り返る言葉は一言もなく、それどころか、亜澄さんの性格の悪さに一因があるように書き、

【何故あの時、亜澄が「ご免なさい」と兄に謝ってくれなかったのか、もし、謝ってさえいてくれれば、兄も我に返り、このような凶行に至らずに済んだのではないか……】

とまで言ってしまう。

確かに、「一言謝ればこんなことには・・・」とは思うかもしれませんが、亜澄さんの【他を顧みない自由奔放な性格と行動】が、どうしてそうなったのか、と考えたことはないのでしょうか?


そして、自由奔放という言葉を使うこと自体間違っています。こんなところで「自由」なんて言葉を使ってほしくないです。ご両親の言いたいのは「自己中心」ということではないですか?


そして、自己中心だったのは、亜澄さんだけでなく、ご両親がそうであったに違いないと思います。ご両親が今までの価値観を見つめ直し、内省しないことには、勇貴くんの真の更正はありえないし、亜澄さんもうかばれないと思います。

私は亜澄さんと勇貴くんが気の毒でなりません。


事件を起こさないまでも、こんな親子がまだまだたくさんいるはずです。

子どもの起こした問題を、「子どもの問題」としかとらえられない親たちです。「子どもの問題」を、人のせいにしたりする親たちです。「子どもの問題」は「自分の問題」として考えなければ、なに一つ解決しないでしょう。


事件のことを新聞報道でしか知り得ない私が、こんな偉そうに書くのは筋違いかもしれません。失礼かもしれません。でも言わずにおれませんでした。


なお、手記全文を下記に転載しました。みなさんはどうお感じになりますか?


〈以下1月24日付け毎日新聞より転載〉

この度は息子勇貴の事件によって、世間の皆様に対し、大変なご心配をおかけしお騒がせ致しましたことを、紙面をお借りして心よりお詫び申し上げます。

私ども家族にとりましては、事件を知ったこの正月3日から今日まで、正直申し上げ、どのくらいの日時が経ったものか、正確には考えられない精神状態でございます。

娘亜澄の死亡と二男の凶行とがどうしても結びつかないということが、私ども家族の苦しみ悩むところでございます。家族でさえこの情況でありますから、世間の皆様にはご理解できないことは尚更のことと存じます。

事件から約20日が経ち、警察のお調べが進むにつれて、事実については少しずつ解明されてきていますが、何故息子があれほどまでの凶行をしてしまったのかという点につきましては、未(いま)だに理解できないのです。
しかし、時間の経過にともない、お陰様で少し落ち着いて考えることができるようになりましたので、現在の心境を少ししたためさせていただきます。


そこでまず、亜澄と勇貴の関係についてですが、「3年間も口をきかなかったような冷たい関係」と報道されていますが、それは若干事実と違います。亜澄が在籍していた短大の入学についても、勇貴が懸命にパソコンで探し当て、やっと入学期限に間に合ったという経緯からも、兄妹の関係は決して険悪というものではありませんでした。

しかし、亜澄の他を顧みない自由奔放な性格と言動は、家族から理解されていなかったのは事実です。こうした亜澄の生活態度を見ているうちに、亜澄と一歳しか違わない勇貴は、妹が両親を悩ます元凶と思い込むようになったのではないかと思います。

また勇貴の性格ですが、優しく、家族に対し暴力を振るったりするようなことは一度もありませんでした。しかし、残念なことに、妹の亜澄は大変気が強く、絶対と言っていいくらい自分から非を認め謝るということのできない子供でした。

とはいえ、二人とも私たちにとっては掛け替えのない子供たちです。今となっては、何故あの時、亜澄が「ご免なさい」と兄に謝ってくれなかったのか、もし、謝ってさえいてくれれば、兄も我に返り、このような凶行に至らずに済んだのではないか……、と今更ながらせん無い繰り言を繰り返す日々でございます。

今後私ども夫婦は、生涯にわたり亜澄の霊を弔うとともに、勇貴が一日も早く更生できるように支え続けたいと考えております。
どうか皆様、私たちがもう少し心の余裕が持てるまでお時間をいただきたく、伏してお願い申し上げ、本手記をお届けさせて頂いた次第です。
平成19年1月24日

武藤衛
武藤洋子

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2007年1月24日 (水)

インターネットのちから

本日、『権力にまけない』の記事に、さきさんというかたからコメントをいただきました。

なんだかすごい縁で、感激したので、ここにご紹介します。


ときどきコメントもしていただいてるむさしさんから、昨夜、「こんなん見つけました」とさきさんのHPを教えてもらいました。

http://blue.ap.teacup.com/paletoutseul/

そこには、1月14日「子どものちから」という記事があって、昨年末にきのくにがテレビで取り上げられ、ミーティングの様子が映っていた、そのことを詳しく書いていただいていたのです。

きのくにのミーティングにとても感激されておられる文章でした。たまたまそのときのミーティングで議長をしていたのが、息子のNだったもので、さきさんも、私からのコンタクトに驚かれたのですよね。


『ニイルと自由な子どもたち』に関する文章などもあり、私も先日この本を取り上げたばかりだったので、とてもびっくりしました。

また、教育基本法改悪反対の姿勢や、トップページの「勇気」という詩など、とても共感する部分が多く、ずっと前から知り合いだったような気がしてしまいました。


小学生のうちからパソコン、携帯を持ち、クラスで顔を合わせるのに、ネット上でないと会話ができない、というのは危険な状態ですが、こんなふうに、出会うチャンスも広げてくれるインターネットのちから、ありがたいな、と思ったことでした。

むさしさん、ありがとね〜。

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2007年1月22日 (月)

自分を振り返ってみれば・・・

私、小中と、とっても嫌な子だったなあ、と思います。

「人を成績でランクづけする」、まさにそれやってました。実際、授業中にさされて答えられない、っていうの、理解できなかったし、宿題をやってこない人、っていうのも、「バカじゃん」とか思ってました。ヤな子ですね〜。

高校ではすっかり落ちこぼれてしまったから、できない人の気持ちはすごくよくわかるようになったけど、性根は変わらなかった。

家では母が、誰さんところは○○大学出身だとか、あそこの息子はあんな高校行ってどうすんだろうね、みたいな会話をよくしていたので、出身大学や会社の知名度でその人のことを判断するようになっていました。


そして今、たくさんのすてきな人たちに出会い、きのくににも出会い、今までの価値観が100%間違っていたことに気がついて、それまでの自分がほんとうに恥ずかしくなりました。

それでも、長年身につけた価値観は、すぐには洗い流せないものなのでしょう。

今の仕事を初めて数年は、出入りの業者の人より自分のほうが偉いような気がして、今思えば失礼な態度をとったような気がします。

スタッフにも、院長の妻、ということで、偉そうな態度をとっていました。
逆に、他の歯科医院長から電話があったときなどは、みっともないほど低姿勢になっていました。


私は私でしかないのに、いっぱいいろんなものをくっつけて、偉そうにしたり、相手の地位をみて態度を変えたり、ほんとうに恥ずかしい自分でした。あ〜、醜いワタシ。


『それでも僕はやってない』に出てきた、偉そうな取調官や刑務官みたい。容疑者は自分より「下」というアタマがあるから、やたらどなりちらし、権威を振りかざす。

私、あんなだったんだ〜。ほんとにミニクイものだな。


*本日の朝日新聞朝刊10面「私の視点」に、『それでも僕はやってない』の周防正行監督の文章が載っています。ご覧ください。映画もお勧めですよ。


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2007年1月21日 (日)

権力に負けない

ここ最近、ちょっとド〜ンとくる映画を二本見ました。

『麦の穂をゆらす風』 と 『それでも僕はやってない』 です。


『麦の穂をゆらす風』は1920年のアイルランドが舞台。冒頭、いきなり、イギリスの武装警察が、理不尽な理由で、いとも簡単にアイルランドの若者を暴行し、殺します。
彼の友人で、ロンドンで医者として働くことになっていたデミアンは、独立戦争をたたかうことを決意するのですが、簡単にはいかない、それはそれは悲惨な戦いに突入してしまいます。


『それでも僕はやってない』は、痴漢に間違われた青年が、身の潔白を証明するために、裁判で闘うもので、実話をもとに作られたそうです。これはまだ公開されたばかりなので、詳しくは書かないでおきますね。


両方を見て思ったのは、権力に弱い人間がのさばる限り、平和から遠ざかる、ということです。


『麦の穂・・』では、イギリスの武装警察隊の、権力を笠に着た横暴な態度に、ムカムカしました。その人自体が偉いわけでもないくせに、警察の制服を着ただけで偉そうな気分になる。こういう人、いますよね。20才そこそこで「先生」と呼ばれて、すっかり自分が偉いような気がしちゃうカンチガイオトコとカンチガイオンナ。


『それでも僕は・・』では、痴漢に間違われた青年の弁護士が、こんなことを言います。

「裁判官が無罪判決を出すのは、検察の判断を否定るすこと。それは国家権力にたてつくことになるんだ。」

今の社会は、結局、信念や勇気とは無縁の、自己保身しか考えてない、権力におもねる輩が勝つような構造になってるんでしょうか?


今朝の朝日新聞に、首都圏で中学受験が5万人を越える、という記事がでていまして、その中で、【塾でのクラス分けなどを通じて「あの子はすごい」「この子はたいしたことない」と「ランクづけが進みがち】という話しがありました。

こういう教育をしていては、素のままの、その人の良さを見いだすことが難しくなります。常に自分より上か下か、という視点が入ってきて、「下」の人を見下す気持ちがおきます。「成績がよい」「偏差値の高い学校に入った」自分が、そうでない人より偉い、と思ってしまうのです。


いつも上下関係で人を見ていると、権力におもねる人間ができあがります。また、暗記中心の詰め込み教育は、社会に目を向ける余裕を奪います。

数週間前の、朝日新聞の投稿欄に、高校生の文章が載っていました。

高校の歴史の授業中、先生が、ある事件の話しをしたのだか、それは簡単な説明にとどまり、「これは試験にでるから覚えておけよ」と言っただけだった。えっ?それだけ?私はどうしてその事件が起きたのか、それをもっと詳しく知りたかったのに、という内容でした。


18日の『口うるさいのは最悪ですね』の中で紹介した、堀さんの著書『ニイルと自由な子どもたち』の中に、こんな文章があります。


【ニイルの教育思想に共鳴し、サマーヒルの実践に学びながら自分自身の教育理論を構築しようとするときに、私がもう一つ重視したいのは、政治や社会の実態を見つめ考えるような活動を子どもに用意することである。 

    ー略ー

私たちはだれでも、詰め込み教育を批難し、その弊害について警告する。しかし、イギリスでは考えられないほどのこの詰め込み教育が、だれによって要請されているのかを考えてみようとする人は少ない。

私の結論は、これを求めているのは、日本の産業界だということである。産業界は職場における「徹底した能力主義管理」を遂行するために、学校においても落第、飛び級などをも取り入れた能力主義教育を実行するよう率直に(つまり露骨に)文部省に働きかけているのである。

   ー略ー

現在の日本において、詰め込み教育に反対する教師は、必然的に政治的社会的な関心をもたないわけにはいかない。詰め込み教育は、単に教育学だけの問題ではない。むしろ政治や経済の問題なのである。】
(P.258,259)


今回私は映画を見、この堀さんの文章を読んで、息子たちがきのくに子どもの村で学んできたことは、ほんとうに価値のあることだったと思いました。

たまたまきのくにに出会い、なんとか行かせることができた、それは、自分の家族だけの平和にとどまらないと思うのです。


社会を良くするのも悪くするのも、教育の力はものすごく大きいのだと、実感しています。


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2007年1月19日 (金)

とは言っても・・・

「口うるさいのは最悪ですね」
 「このときから、自分が少しずつ変わって来たような気がします。」

と自分で書いておきながら、ちょっと恥ずかしくなったので、補足しますが、

私、まだまだ口うるさいと思います。

自己採点では、最初が口うるさい度100%だったとしたら、今は20%くらいと思います。


息子に言わせれば50%くらい、かもしれない、けど、恐くて聞けません!

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2007年1月18日 (木)

口うるさいのは最悪ですね

親は、子どもが大きくなっても、「親」という立場から、あれこれアドバイス(悪く言えばよけいな口だし)をしてしまいがちです。その積み重ねが、子どもが自分で考えるチャンスをつぶしてしまってるんだなあ、ということが、今はよくわかります。

そのことに、強烈に気付かせてくれたのが、5、6年前の、堀さんの講演会のときでした。


堀さんのお話は何度も聞いていますが、そのときのテーマは幼児教育に関してでした。

堀さんは大阪市立大学の教授であったとき、幼児教室を開いて、おもちゃづくりやお話づくりなどをされていました。ある日の活動は、パチンコづくりです。4、5才の子が板を切り出すところからはじまります。

当時の写真をスライドにして、それを見ながら話しをしていただきました。

ある男の子(5才11ヶ月)は1年半前からこの幼児教室に来ていて、早速慣れた手つきで板を切り始めます。そして外枠を打ち付けていくのですが、打った釘がすべて板のうしろにはみ出してしまっていることに気がつきます。

この子はそれに気がつき、かなりの時間(約2分)、じっと釘をにらみつけ、考えます。

それから粘着テープを取りに行き、出た釘の上に貼付けて行くのです。そして、指でなでてみて、痛くないのを確かめて、ニコッとするのです。

釘を全部引き抜くのは大変すぎるし、板はちゃんとくっついているから大丈夫。でも、そのままでは痛いし服もやぶけてしまう。痛いのが問題なんだから、だったら粘着テープをはればいい、とその子は2分間考えて、気がついたのです。


この場面で、堀さんが言われました。


「みなさん、この子がじっと考えてる写真を見てください」

    2分経過

「どうです?何か言いたくなったでしょう。

 “どうしたの?”
 “なに考えてるの?”
 “ぼんやりしてたら時間なくなっちゃうよ”
 “わからないなら、さっさと先生に聞いてらっしゃい”

こんなこと言いたくなった人、たくさんおられるでしょう?そうすると、この子が考えてるのを台無しにしてしまうんですよね。わあわあ言われたら、考えることなんかできませんよね。

この場面で、何も言わずに見ていられる人がいたら、相当の保育者ですね。」


ああ、私も、ごちゃごちゃ言っちゃう親だなあ、と、がつ〜んときました。自分では、親として気配りしてるつもりが、子どもが自分で考え、解決するチャンスをすっかり奪ってしまっていたなんて!


このときから、自分が少しずつ変わって来たような気がします。


*この幼児教室の様子は、『ニイルと自由な子どもたち ーサマーヒルの理論と実践』 (黎明書房 堀真一郎著)の271ページから、写真入りで詳しくでていますので、どうぞお読みください。親はもちろんですが、保育士さん、必見だと思います。

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2007年1月15日 (月)

心配ない

1月8日、Fが在籍しているギタースクール(フォレストヒルミュージックアカデミー)で、発表会がありました。

場所は福岡にある「あいれふホール」という、かなりちゃんとした音楽ホールです。音響がとてもよく、ギターにうってつけです。

きのくに在学中は、何度か友達の前でギター演奏させてもらいましたが、こういう音楽ホールで、一人で演奏するのは初めてです。先輩、先生がたも聞いているし、一般のお客さんもいる。

考えただけで緊張してきたのか、前日の夜、Fが、「俺、ミスるかも・・・」と弱気な発言。

うわ、こういうとき、私はどうすればいいんだ〜。

「今のそのままを出せばいいよ。100のものを200に見せようとしなくていいし。」

とだけ言った。

翌日、準備のため早めに会場入りするFを車で送り、降ろすまで、Fはすっかり無口になり、あまり会話はなかった。夫も「あいつ、白い顔してたけど、大丈夫かな」と心配顔だったけれど、「じゃあね」とあっさり別れた。後は会場で演奏を聞くだけ。


Fの出る順番になると、私の心臓がバクバクいいだした。いよいよ・・・。

Fが舞台にでてきた。中央で、ちゃんとお客さんの方をみて、しっかりお辞儀している。

演奏は、ちょっとトチッたところがあったものの、彼のいつものキラキラした音で、うっとりする調べを奏でてくれた。(かなり親ばか?)
最後は、少し微笑んで、また、お客さんのほうをしっかりみて、お辞儀をした。その落ち着きぶりに、驚いた。

先生がたの評判も上々だったようで、打ち上げに参加して、翌日帰宅したFも、誇らしげな表情だった。


「どきどきしたでしょう?ちょっと間違っちゃったときは、あれからぼろぼろに崩れるのかと思って、ドキッとしたよ〜」と言うと、


「直前は緊張して手のひらに汗はかくのに指は冷たくて、どうしようかと思ったよ。でもね、楽しもうと思った。緊張して、失敗して終わるのは楽しくないからね。間違えたときも、そんなことはすぐ忘れて、演奏に集中したよ。」

と、笑顔で話してくれた。


「あいつは何にも心配いらないな。いろいろアドバイスしたほうがいいのかと思ったけど、何も言わなくてよかったな。」

と、後で夫が言った。私もそう思った。私たちが考えるより、ずっと彼は大人で、ちゃんと自分で考えてるんだなあ。あの、無口だった当日の朝も、彼は頭のなかでいろいろ考えていたに違いない。

私たちがあれこれうるさくアドバイスしたりして、彼が静かに考えているのを邪魔しなくて、よかったな〜。


ほんと、なんにも心配ない。


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2007年1月13日 (土)

人のこと言えない

16日がFの通信制高校最後の課題提出日です。

毎度のことながら、直前になってヘルプコール。(“失敗から学ぶ”のは、どうなったんかえ〜?)

私が手を差し伸べられるのは英語と国語だけですが、まあ、見てあげましょ、と。

穏やかに一緒にお勉強。・・・

・・・それにしても、こんな単語も読めないんですか・・・?
この構文はこの間もでてきたじゃないですか。もう忘れたんですか?

いかんいかん、イライラしちゃいかん! と心を落ち着けて、穏やかに・・・。

なんとか終わりました。ほっ。

さあ、私も自分の勉強しましょ、とフランス語のテキストに向かいます。

あれ、この文章、意味なんだっけ?あれ、昨日やったところだ。
 ゲゲっ、もう忘れてるんだ、私。

Fのことをあれこれ言う前に、まず、自分のことでしたね。


*Fは上記のような次第で、英語が得意ではありませんが、Nは好きなほうで、中二の二学期に英検三級に合格しました。FもNも、きのくにでの授業だけで学びました。この違いは各人の興味や関心のありどころに寄るものだと思います。

【・・・それにしても、こんな単語も読めないんですか・・・?】
この部分で、きのくにの授業がお粗末だと誤解なさるかたがいるといけないので、きのくにの名誉のため、補足しました。

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2007年1月10日 (水)

気を取り直して、ひとこと

4日に、「映像の影響」の中で少し触れた、予備校生が妹を殺害した事件。ショックで、もう何も書くまい、と思ったのですが、

ひらおだいのよしのさんから、
【こどもにも、おとなにも、真剣に向き合っていかなくてはと感じました。どんな出来事でも、自分に反映して考えることができれば、情報として生かされると思います。】

というコメントをいただいたし、私もそう思うので、まとまらないなりに、ちょっと書こうと思います。


「成績のいい子ほど自己肯定感が低い」という話しを聞いたことがあります。私もそれは十分あり得ると思います。

世間は、「○○高校に行っているからあの子は優秀」「学年で10番以内なんだから、いいわね」「受験も余裕ね」なんていう見方をするけれど、本人は「落ちるわけにはいかない」という重圧で、毎日が地獄なんです。

もっとも、成績がよかろうが悪かろうが、熱中できるものが他にあって、自己肯定感があって、楽しく生きている子もたくさんいるでしょう。


その違いはどこからくるのでしょう。

やっぱり親のあり方、価値観が、その子の人生を大きく左右するのだと思います。


12月19日の「年賀状で一言申す」で書いたように、子どもを追いつめる親は最悪です。

不思議と医者、歯医者に、こういう親が多いような気がします。

以前、医者の夫を持つ友人が、「やっぱり息子には医者になってもらわないと」と言ったので、

「なんで?子どもの人生なんだから、なんになるかは子どもが決めることでしょ?そんなに医者がいいなら、今からあなたがなればいいじゃん」と言ってしまいました。


「息子は医者になってもらう」とか「医院をつがせる」とか言う人が多いんです。ほんとうに腹がたちます。こういう人は、きっと、「子どもの人生は親が決める」と思ってるんでしょうね。

そういうかたには、カーリル・ギブランの「あなたの子どもは」という詩を読んでもらいたいです。

(この詩は2006年6月24日「奈良の高校一年生の事件で思うこと」に対するコメントの中に、全文記載されています。ご存知でないかたは、バックナンバー2006年6月から、見にいってみてください。)


子どもは信頼されて、自分の人生を任されると、ほんとうにのびのびと成長し、自分の頭で考え、道を切り開いていくのだな、ということを痛感しています。美しい矢がどんどん遠くへ、高く飛んで行くようです。親として、これほどの幸せはありません。

どうしてこういう幸せに気がつかないで、親子で人生を狭めて、苦しんでいるのだろうと、残念でならないです。

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2007年1月 7日 (日)

映像の影響

なんだか、あまりに悲惨な事件が多くて、ショックです。

今回は、妹を殺害した予備校生の事件。以前、奈良の高校生が放火して、弟妹とお母さんを殺してしまった事件については書きましたが、なんだか、もう、何を書いてもむなしい気持ちです。

我が家はテレビがないので、今回の事件も新聞とネットのニュースで知るのみですが、テレビのワイドショーなんかでは、連日、「バラバラ」とか「木刀で」とか、リポーターが無神経に何度も繰り返しているのでしょうか?

こういう報道は、いったいどんな効果を生むのか疑問です。私は新聞で読むだけでショックで、頭から離れないくらいなのに・・・。まあ、テレビを持ってても、見なきゃ済むんでしょうけれど。


我が家からテレビが消えたのはもう十数年前です。私が大のテレビ好きで、あるとだらだら見てしまうので、「これじゃいかん!」と思いたち、夜中に一人で二階の屋根裏に上げてしまったのです。そうして、何年かしてワールドカップのとき見ようと思ってだしてきたら、もう壊れていました。


なので、息子たちはきのくにに入るまでは、ほとんどテレビを見ない生活でした。

あるとき、たしかFが小学校二年生くらいのとき、友達の家で、「衝撃の映像」みたいな番組を見たそうです。帰って来て、「恐かった〜。心が壊れそうだった。」と言ったのです。

映像というものは、ストレートに目に焼き付きますから、刺激が強過ぎます。事件の報道も、短時間で次々変わるコマーシャルも、たまにお店に入ったときなどに見ると、ああ、疲れるなあ、と感じます。


最初は「心が壊れそう」と感じても、毎日そういうものに触れているうちに、どんどん鈍感になっていってしまうのでしょうね。慣れずにいたいものです。


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2007年1月 4日 (木)

茨木 のり子さんの詩

私の好きなフジコ・ヘミングさんのインタビュー記事が載っていたので、雑誌『クロワッサン』1/10号を買いました。

その記事ももちろんよかったのですが、普段、詩を読むことのない私が、茨木のり子さんの詩に、心惹かれたので、ご紹介します。新年だし、なんか、気持ちがしゃきっとしますよ!


<自分の感受性くらい>

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

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2007年1月 1日 (月)

謹賀新年

気候も気分も、穏やかな元旦です。

息子たちがきのくに子どもの村学園に入学してから(長男はもう卒業しましたが)、長期のお休みは、とても貴重なものになりました。

普段離れて生活しているので、たまにゆっくりできるお休みには、「まず、Nと何をしようかな」と考えてしまいます。


この冬休みは、Nが今興味を持っている、人種差別や戦争、紛争などを扱った映画のビデオを借りて来て、一緒に見ることにしました。


まず、『ホテル・ルワンダ』。N以外は映画館ですでに見ていたけれど、全員でもう一度。

映画の中で、ある赤十字の女性が、孤児院での虐殺の様子を語るのです。子どもが、「殺さないで。私、ツチをやめるから。」と哀願した、という話しを聞いた時には、号泣してしまいました。そして、「こんなひどいことをするフツ族のやつらを殺してやりたい!」と思ってしまったのですが、それじゃあ同じことなんですよね。


で、映画を見た後に、同じ1994年の大虐殺のときに、3ヶ月近くもトイレに隠れていて生き残った、ツチ族の女性が書いた本、『生かされて』(イマキュレー・イリバギザ著 PHP出版)を読んだのです。イマキュレーは大変な恐怖と苦痛の中で生き延びましたが、親や兄弟は殺されてしまいます。それでも、彼女はフツ族を許すのです。


この本もNに勧めてみたら、没頭して、一日で読んでしまいました。
「最後に、家族を殺した人を許すところがすごいな」と、一緒に本の感動を分かち合いました。


あとは、11月24日に書いた、『ミシシッピー・バーニング』と、『ゴースト オブ ミシシッピー』を見ました。

『ゴースト オブ ミシシッピー』は、1963年に起こった実話をもとに作られました。公民権運動家の、メドガー・アンダーソンが射殺され、犯人の白人男性は無罪。メドガーの妻は、30年近くたったけれど、裁判を要求します。彼女の熱意は、最初は協力的でなかった検事を動かし、陪審員に黒人も含まれた、やっとまともな裁判が開かれるのです。


「黒人差別」という言葉は知っていても、なかなか実際にどういうことがあったのかを知ることはできません。、映画は、つくりものではあるけれど、やはり、心に深く入ってくるものですね。


Nも、中一の頃は、私が「この映画よかったよ」と言っても、「お母さんがいいと思うものと、俺が面白いのは違うんや」と言って、あまり興味を示してくれなかったのですが、最近は、社会問題に関心が強まっているようで、一緒に見るようになりました。

Fは、「わらじ組にいるんだから、そういう本を読んだりするやろ。興味もでるよ。」と、自らわらじ組だったときのことを思い出して、Nの変化をそんなふうに言っていました。


社会のことに関心を持つ、というのは、とても大切なことだと思います。

自分の成績が上がること、志望校に受かることばかりを考えて過ごしていた私の学生時代は、なんだか醜かったなあ、と、感じる今日この頃です。


今年一年の目標をまだたてていないのですが、このブログでは、自由教育のすばらしさを伝えるとともに、お勧め本、映画なども、またちょこちょこご紹介していきたいと思います。

本年も、どうぞおつきあいのほど、よろしくお願い申し上げます。

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