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2006年12月30日 (土)

今年最後

今年4月に始めたこのブログも、今年最後の記事作成となりました。

写真もなく、特に目新しいこともなく、とにかく、きのくに子どもの村学園が大好き〜、っという、当ブログを見にきてくださるみなさま、どうもありがとうございます。

また、「きのくにで検索していたら、ここにたどり着きました」という方がたとの出会いもあり、うれしいことでした。


今年は特に、いじめや自殺、子が親に危害を加える、という報道をたくさん目に致しました。

そういうニュースを見聞きするにつけ、もしかして、別の人生だったら、私がその当事者になっていたかもしれない、と思うのです。

いじめている子たちも、死にたいほどつらい子たちも、親を心の底から憎んでいる子たちも、もし、きのくに子どもの村学園に出会えたら、人生が変わっていくと思う。

「きのくにに出会えていたら」というのが、ちょっと狭い意見であるなら、自己肯定感を持てるような教育を受けていたら、と言い換えてもいいでしょう。そうであったら、人をいじめたくならないし、どんなにつらいことがあっても自ら死を選んだりしないし、親子で憎み合うこともないでしょう。


きのくに子どもの村学園が目指す、「自由な子ども」が増えたら、それだけ世界は平和になるでしょう。


【困った子どもというのは、実は不幸な子どもである。彼は内心で自分自身とたたかっている。その結果として外界とたたかうのだ。困った大人も同じ船に乗っている。幸福な男は、集会の邪魔をしたり、戦争を鼓吹したり、黒人をリンチしたりはしない。幸福な女性は、夫や子どもに小言いいつづけたりはしない。幸福な人は決して殺人を犯したり盗みをはたらいたりはしない。幸福な事業主は従業員をおどしたりはしない。】  A.S.ニイル


私、同じようなことを何度も書いてますね。もう少し工夫をこらしたらどうかしら、と、我ながら思わないこともないのですが、無理すると続かなそうなので、この調子で、しつこく書き続けたいと思います。

きのくにを通して味わった感動は、いくら書いても尽きないんです〜。

来年も、だらだらぼちぼち行きます!みなさまどうぞおつきあいのほど、よろしゅうに・・・。

それでは、よいお年をお迎えください。

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2006年12月27日 (水)

おったまげた!

2ヶ月ぶりに帰宅したNが、こんなことを言いました。

「○○がな、俺に、“お前、偏差値どれくらいの高校行くん?”って聞いてきたんや。そんなん変やろ。」

○○とは、同じきのくにの同級生です。

私:「ええ〜っ?偏差値どれくらいの高校って、なにそれ。どんな高校に行く?とか、何になりたいん?って聞くならわかるけど、ひょえ〜、きのくに子で、そんなん言う子がおるん?だいたい、まだ中二やん。それで、あんたなんて答えたん?」

N:「偏差値とかわからんし、なんかむかついて、まあ適当に20くらいかな、って答えといたわ。」

アハハ、○○くんはどんな顔で、それを聞いてたのかなあ。


そういうこと聞くのって、きっと、○○くんの問題ではなくて、親が家でそういう会話してるんだろうな。せっかくきのくにに入ってて、そういう考え方なんて、どういうことなんでしょ。


私は『自由学校の設計』を読んだとき、「ここなら、私がやってきたような、“偏差値が○点だから、この高校にしよう”というような進路の決め方でなく、“高校で何がやりたいか”で決めることができるんだろうな」と感じました。

そして、Fのときの入学願書には、こんなことを書きました。

【私自身が小学校の頃から大学受験を意識し、良い高校、良い大学に入ることばかりを考えて過ごしてきたので、子どもには、もっと楽しく勉強してもらいたい。進路も親が見栄を張って選ぶのではなく、本人がじっくり考えて探していってほしい。(母)

偏差値や学歴社会とは無関係のところにいさせてやりたい。(父)】

今、その願いはかなっています。とても幸せです。


そして、Nは、帰宅した次の日には、持ち帰った数学のプリントをだしてきて、証明問題やっています。数学の時間中にやっていたけど、うまくいかなくて、途中になっていたのを完成させたいから、と言って。

授業中にやったプリントもたくさん綴じてあったので、私がそれをパラパラ見ながら、「勉強してるねえ」と言うと、

「俺、勉強っていう感じじゃないけどな。それに、授業聞いてればわかるし。家庭教師とかつけてるやつもおるけど、なんでそんなん必要なんか、さっぱりわからんわ。そういうのに限って、授業中聞いてねえもん。」とのこと。


家庭教師ねえ。

やりたいことがはっきりして、そのためにこの高校に入りたいけど、受験の準備してたらどうしてもわからない分野や間に合わない分野があるから、家庭教師をつけてそこを補いたい、というなら、理解できますが、まあ、そういうのは少ない気がしますねえ。

親が勝手に焦って、「今のうちにやっとかないと」っていう感じなんだろうな。本人の意志じゃないから、親の前ではしぶしぶ勉強するけど、きのくにの授業中に息抜きしてるんでしょうか。

まったく、迷惑な話しです。それに、きのくにの授業料も家庭教師もって、お金あるなあ。っていうか、もったいな〜い。


親が余計なこと言ったりしたりしないで、きのくにに任せておけば、丈夫できれいな花が咲くのになあ。

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2006年12月24日 (日)

できることから

22日、Nが帰ってきました。わ〜い!

帰宅するときは、伊丹空港発が19時くらいなので、20時にこちらの空港まで迎えに行きます。

おなかをすかせて帰ってくるので、お弁当を持っていって、空港からの車の中で、食べるようにしています。でも、育ち盛りなので、2時間もするとまたおなかがすいてくる。

それで、
お迎え→車でご飯→温泉はいる→ローソンでおでんとビール買う→帰宅→食べる

というのが冬の定番になりつつあります。たま〜に食べるローソンおでん、息子も私、好きなんです。

でも、あのおでんの容器(発泡スチロールみたいなの)が、ゴミになる。環境問題に関心を持つ息子の親として、私もなんとかせねば・・・ということで、今回は、家からタッパーを持参しました。

お店で「おでんはこれに入れてください」と言ったとき、Nが恥ずかしがるかと思ったら、「おかあさんえらいじゃん」という感じで、ちゃんと横に立っててくれてる。うれしかったです。

お店の人も、「あら、いい考えですね」と言ってくれて、ちょっとドキドキしてたのが、ホッとしました。


できることから、ちょっとずつ、ですね。

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2006年12月22日 (金)

人間関係こそ基礎学習、かな?

【人間関係って本当に難しいですね。有名大学の難問より難問かもしれないですよね。】

12月16日の記事、「人間関係の自由」にいただいた、チュン太さんの、この言葉で思い出したことがあります。


大学受験のために、さんざん問題集をやってきました。現代国語では、「この部分で作者の言いたいことは?」っていう問題があるんですが、そういうのはバッチリなんです。そういう問題に正解するコツ、みたいなのをつかんでますから、まずまちがえない。

でも、実際に友達としゃべったりするのが、すごく苦手で、苦痛だったんです。とにかく高校時代、そして浪人時代は、受験勉強以外は食事とお風呂、という生活で、友達とわいわい騒いだり、じっくり話したり、っていうことがほとんどありませんでした。

そうしていると、人が何を考えてるかとか、関心なくなるし、いざ人と向き合うと、何を話したらいいかわからなくなってしまうんです。


今思うと、キケンだなあ、とわかるんですが、その頃は、「合格」が最大の目的ですから、それ以外のことは全部、「邪魔」という感覚でした。


そして、社会にでたら、それこそ人間関係でコミュニケーションとらなければならないことだらけ。


あるとき、考えました。

「人と付き合わなくて、1人でできる仕事ってないかなあ?あ、そうだ、翻訳業なんてどうかしら」

とひらめいて、語学の実力はないくせに、「人と付き合わなくていい」という理由だけで、「翻訳者になるには」という本にとびつきました。


そしたら、その本には、「この本を訳して、多くの人に読んでもらいたいという熱い心と、翻訳権をとるために、営業したリ人にアピールしたりするコミュニケーション能力は絶対必要」というようなことが書いてあって、がっくり。


やっぱ、この世は人と話しができないんじゃ、やってけないじゃん、というのを痛感した次第でした。


ゾーイ・レドヘッドさん(サマーヒル現校長)が言っていたけど、

「どんなに成績がよくても、人とうまくコミュニケーションがとれなかったら、何にもなりません」

ほんとに、その通りです。

なのに、今も、一般的な教育は、そのことに気付いてもいないかのように、暗記勉強中心で勧めている。無駄なことをしているもんだ。

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2006年12月19日 (火)

年賀状で一言申す!

某県、某地区の歯科医師会長が、ある文書の巻頭挨拶で、昨今のいじめ問題に関して文章を書いていた。

「いじめるのは人間の本能である」、という作家の文章を引用し、【本能であるから、子どもにはその本能を押さえることを教え込まねばならない。そして、子どもには権利はない。なぜなら子どもに義務はないからである。】

うわ〜、やっぱりこういう人っているんだ〜。怒りムラムラ。おまけに、この某氏は、受験を控えた娘に、「失敗したらお前の人生終わりだからな」と言ったことがあるという。


ちょうど来年の年賀状作成中で、文章を考えていた私、こういうやつに送りつけてやりたい、と一気に書きました。


【昨年は教育基本法改正案やイジメなど、子どもの教育に関して考えることの多かった一年でした。

「命の大切さ」や「倫理道徳」「愛国心」を「教え込む」より、もっと子どもの考えを尊重してあげて、ゆったり一緒に笑顔で過ごすほうが、ずっとイジメは減るはずです。

〈子どもに関しては真理は一つしかない。つまり子どもは、愛され自由であるなら、善良で正直な人間なるという真理である。〉  A.S.ニイル】


夫に、「この年賀状この人に送りたい!」と言ったら、「無駄なことはしないほうがいいよ。」と冷めたひとこと。

やっぱ、無駄かな〜。

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2006年12月16日 (土)

人間関係の自由

前回同様、シンポジウムの資料から。

〈共に生きる〉
○強い自我と自己主張、自分自身である喜び
○共に生きる喜びと人間関係の術(すべ) (要求の調整、共同の目的追求など)

【現代の子どもは孤立し、ほかの子や大人と心を通わせる嬉しさを奪われ、競争に追い立てられている。私たちは、強い自我意識をもつ1人ひとりが、同じように自立した他者と力を合わせ、願いや要求を調整して生きる楽しさを存分に体験してほしいと思う。これこそが、自立した大人によって支えられる民主的な社会の基礎なのだから。】


「きのくにのような特殊な世界で育つと、卒業した後の世界に適応できないんじゃないの?」と言われることがあるのですが、と〜んでもない!ですよね。

普通の学校で、全員同じ姿勢で黒板に向かっているほうが、ある意味よほど楽かも。(私は嫌だけど)

きのくにでは、友達と一緒に何かを作り上げる、ということがすごく多いから、たくさん話し合う必要があります。意見が違うからといって、そっぽを向いていたのでは、プロジェクト活動もままなりません。

また、寮生活だと、学校で意見が違ってぶつかっても、また同じところでの生活なので、精神的にしんどいこともたくさんあるでしょう。

そんななか、嫌なことはできるだけ少なく、楽しいことはより多く、という気持ちで、【強い自我意識をもつ1人ひとりが、同じように自立した他者と力を合わせ、願いや要求を調整して生きる楽しさを存分に体験】できるのが、きのくにの子どもたちなのです。

実際、息子たちも、友達との関係で悩むこともあったようですが、それが生きることそのものなんですよね。


卒業生の子が、「普通の学校で机に向かって勉強だけしていたのでは学べなかったことを、たくさん学ぶことができました」とか、「人との距離のとりかたを学んだ」とか、「きのくにでは、人間関係でものすごく悩んだけれど、一生の友達ができた」とか言うのを聞いてきました。

たくさん話し合う中で、相手の考えを知り、認めることができるようになるのだなあ、と思いました。


また、Nがきのくに小学校のとき、同じクラスにちょっと変わった子(詳しくは書けませんが、普通の学校だったらちょっと浮いてしまって、いじめられるかも、というような子)がいました。

うちでその子の話題がでたとき、Nが、「○○ちゃん、すごくいろんなこと知ってるんで。本とかよく読んでるし。」と、その子に一目置いているような話しぶりでした。確かにその子が書く作文は、ちょっと変わってるんだけど、すごくユニークで、人を引きつけるものがありました。

きのくにが、「勉強ができて、明るいよい子」という、一つの尺度だけで子どもを見る学校でなかったから、子ども同士も、ごく自然に、一人一人のよいところが、自然と目に入ってくるのだなあ、と思ったことでした。


とにかくきのくにでは、話し合う、文章を書く、友達と一緒に活動する、ということが多いですから、共に快適に生きる術が自然に身に付くようです。

だから、「きのくに卒業後、新しい社会に適応できない」なんて心配するのは、まったくお門違いで、それより、親は管理的で勉強勉強と口うるさくて、教師もストップウオッチ片手に百増す計算に精を出し、朝は校門でスカート丈を測ってる、そんなところで生きてたら、いったいどうなるんでしょう、と、こっちのほうが心配です。

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2006年12月14日 (木)

知性の自由

先日のシンポジウムの資料に、とてもわかりやすく、簡潔にまとめてありました。

〈自由な知性〉 
○創造的または科学的な思考の態度と能力
○多方面の、あるいは強い興味や好奇心、そして情報を収集する力

【今日の子どもは、抽象的な知識の記憶や機械的なドリルに明け暮れている。具体的な事象にそくして創造的に考える喜びは奪われているのだ。私たちは、自分自身にとって大切な仕事や問題に取組み、仮説を立て、結論を導き、手も体もつかって確かめる楽しみを存分に味わってほしいと思う。現代では不自由な物知りが余りにも多い。】


はい、私、不自由な物知りです。そして、今は何もかも忘れてしまった、「かつての物知り」です。

私、中学のとき、理科の「濃度」の単元のテストで、学年一番の点数だったんです。50点満点で49点。

「100ccの10パーセント食塩水には、何グラム食塩が入っているでしょう」みたいな問題。
(実は、なにもかも忘れ切っています。この例えの問題も、なんか、おかしいかも。)

すごく難しかったらしく、みんなボロボロで、その中で私はほぼ完璧だったのです。


それなのに、仕事で、消毒用の薬品をつくるのに、困ってしまうのです。

瓶に、「この液は10倍に薄めて使用してください」と書いてあるのですが、ということは、この原液をキャップ1杯入れたら、水はキャップに9杯入れるの?それとも10杯入れるの?(これは理系の夫に聞いて、解決済み)

ほんとにバカでしょう?我ながら、かつての秀才どこ行った、と突っ込みたくなります。


中学のときは、公式をしっかり頭に叩き込んで、その通りやれば間違いがなかったので、それで乗り切ってきました。真面目さは折り紙つきでしたから、覚えろ、と言われたら覚えます。

でも、そういう知識は、忘れるのも早いのね。今の仕事をするまでは、10数年必要なかったし。

もし、あの頃、実際に楽しくお料理でもしながら、10パーセント溶液だの、10倍希釈液だのを作っていたら、こんなに見事に忘れることはなかったんじゃなかろうか、と思います。(いや、単に私がバカなだけ?)


FやNは、きのくにで、建物をつくったり、うどん、パンなどいろいろ料理をしたりして、【自分自身にとって大切な仕事や問題に取組み、仮説を立て、結論を導き、手も体もつかって確かめる楽しみを存分に味わって】きました。

ああ、うらやましい。

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2006年12月12日 (火)

プレッシャーに強い

福田進一先生(といっても、ご存知ないですね。大御所ギタリストです。)のレッスンを受けたF、本日、さわやかに帰宅。レッスン後も、先生を含め、数人で食事に行き、朝まで話し込んだということで、「いい話したくさん聞けたわ。」と満足げ。

昨日家をでるとき、適度に力が抜けていて、淡々とやるべきことをやっているFの様子に、「あいつ、プレッシャーに強いよな。」と夫がつぶやいていました。


それで思い出したのが、「自由な子どもはプレッシャーに強い」という話し。堀さんが何かに書かれていたのです。(出典が見つけられませんでした。)


ちょうどつい先日、元マラソンランナーの増田明美さんが、こんなことを言われていました。

【あるとき、コーチに少しでも早いタイムを見せたくて、少し短く走った。それはすぐばれて、「君はなんのために走っているのか」と言われた。そのとき、私はずっと人からの評価ばかり気にして走っていたことに気がついた。】

確かに、当時の増田さんは、なんだかいつもつらそうで、プレッシャーに弱かったですよね。


意識がいつも周りに向いていて、人からどう思われるかばかりを気にしていると、本来の力が出せないし、肝心なところで精神的にもたなくなってしまうのでしょうね。

自己肯定感があって、意識が自分に向いていると、精神的に余計な労力を消耗しなくて済むのでしょう。


【無意識の不安、抑圧、自己否定感から解放されている。そして、明確な自己意識、自信、自己肯定感を持っている。】

これって、幸せに生きていくうえで、ほんとうに大事なことなんだなあ、と、Fを見ていて再認識しています。

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2006年12月11日 (月)

感情面での自由

きのくに子どもの村学園が目指す【自由な子ども】とは、感情、知性、人間関係、いづれの面でも自由な子ども、ということですが、今日は、まず、感情面での自由、ということを考えてみたいと思います。

その言葉の意味は

【無意識の不安、抑圧、自己否定感から解放されている。そして、明確な自己意識、自信、自己肯定感を持っている。】ということです。(by 堀さん)


堀さんは、「子どもたちに、“自分が好き”という感情を持ってもらいたい」と言うのですが、私自身は、自分のことはいつも他人の評価をもってしか、判断することができませんでした。

親や先生にほめられたい、友達に好かれたい、ということが先で、自分がどうしたい、どう生きたい、ということは、あまり考えなかったような気がします。いつから、どうしてそうなったのかなあ。


確固とした自己(明確な自己意識)がないので、親や先生に叱られたり、友達にきついことを言われたりすると、自分を全否定されたような気分になってしまい、落ち込んだものです。堀さんの本を読みながら、「ああ、私みたいなのが、不自由な子ども、だったんだな」と思いました。


Fは明日、クラシックギター界では大御所の先生から特別レッスンを受けることになっています。

私は、Fが先生にほめられたらいいな、認められたらいいな、と思い、「練習頑張ってね。明日は天下分け目のレッスンよ〜!」と、冗談めかしてではありますが、力を込めて言ってしまいました。

Fは、「そんな〜、それで人生が決まってしまうわけじゃあるまいし。」と苦笑しています。そして、「まあ、まだまだやけん、もっと弾きこまんとな。」と、淡々と練習しています。

先生にほめられたいから、というより、まずギターを弾くのが楽しい、そして、その曲を自分のものにしたい、自分が満足いくように演奏したい、という様子なのです。

ああ、これが心が解放されていて、【感情面で自由】ってことなんだなあ、と感じました。


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2006年12月 7日 (木)

目標は「自由な子ども」

【きのくにはテストがないそうですが、テストはこどもがどれだけ理解しているかの目安でもあり、テストなくしてどうやってこどもの理解度を判断されているのでしょうか?
全員の習熟度を普段の様子からひとりひとり把握しそれぞれの子に合った教え方をされているなら、それはすばらしいことだと思います。本当にそんなことができるのでしょうか?】

これは、10月3日の記事、「柔らかいアタマ」にいただいた、kitaguchiさんからのコメントの一部です。


そのときは、「堀さんの本を読んでいれば、こんな質問がでてくるはずないよなあ」と思って、ちょっと返答する気力が湧かなかったのですが、やはり、きのくにと深く関わったことのある人以外は、当然抱く疑問でもあるのかな、せっかく良い質問をしてくださったのに、そのままにしちゃったな、と、気になっていました。


また、きのくにの保護者でさえ、子どもが中学生になると、「そろそろ受験の準備をしないと・・・」と焦りだす、気の毒なかたもいるくらいですから、上記のコメントについて、ちょっと書こうかな、という気持ちになってきました。


きのくに子どもの村学園の教育目標は、【感情面でも、知的にも、人間関係でも、自由な子ども】なのです。

【学習指導要領の内容を、すべてマスターし、記憶している子ども】ではないのです。

ここをきちんと認識しておかないと、「それは八百屋へ来て洋服を注文するようなものだ」ということになってしまいます。(『きのくに子どもの村』ブロンズ新社P.59)

ただ、こう書くと、「きのくにの子どもは、バカなんですか?」って言う人がいそうで困っちゃうんですが、そうかどうかは、これまで書いたブログを読んでいただければ、わかっていただけるのではないかと思います。

一言付け加えるなら、きのくにでなされる体験学習は、体だけでなく、ものすごく頭を使います、とういことです。


そして、きのくにに入る前に堀さんの本を読んだとき、私がすっかり惚れ込んでしまった文章がこちら↓です。この文章が理解できないかたは、きっときのくにに縁がないかたなんだろうな、と思います。


【 よくこんな質問を受ける。
「きのくにを出た子どもは、現代の激しい受験戦争で取りのこされるのではないでしょうか」

 この質問は、そもそも発想が間違っているのではないだろうか。私は、きのくにの子どもが15人いたら、15人それぞれに違った道に進んでほしいと思う。一流校といわれるところへ行く子があってもよいが、外国へ行く子、やきもの工房に弟子入りする子、車の整備のほうに進む子、父親の仕事の見習いをする子、しばらくじっと人生を見つめようとする子、などいろいろあってもらいたい。もし間違って、全部の子が、いわゆる受験勉強に精を出して試験に合格し、世間の子と同じように高校に入っていったら、きっと私は落ち込んでしまうだろう。】

堀真一郎著 『きのくに子どもの村』ブロンズ新社 P.165より
 

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2006年12月 3日 (日)

共同浴場にて

我が家は温泉地にありまして、毎晩共同浴場に入りに行っています。一家族ひと月2000円也。
冬は特に体の芯から暖まりますので、温泉のありがたみを感じます。

しかし、共同浴場ですから、いろんな人が入るわけで、それぞれ、熱いお湯が好き、ぬるめが好き、など好みがあります。また、この時期、窓を開けておく派と、閉めておく派、にも分かれます。

「さっきの人が窓開けるから、お湯が冷えてしまって、ほんと迷惑やわ。この時期窓開けたら絶対だめ!」

という人がいるかと思えば、

「窓閉め切ったらだめよ〜。天井に水滴ができて、それが落ちて来て冷たいじゃない」

という人もいる。

あ〜、も〜、うるさ〜い!!あったかいお湯に入れるだけでもありがたいと思いましょうよ。

私は、誰もいなければ、ちょこっと10センチくらい開けて置くけれど、別に、なにがなんでも開けたいわけではない。


しかし、今日、お風呂に行ったら、窓の鍵が、絶対あかないように、針金でまいてあったのには驚いた。きっと、「窓閉めとく派」の誰かがやったのでしょう。そこまでするか〜?そこまで許容範囲の狭い大人の心理、恐いです。


で、思い出したのが、きのくにの卒業生の文章です。

【大学では寮生活ですが、大変スムーズに暮らしています。ほかの日本人学生がルームメイトのことで愚痴をこぼしている中、そういうふうに神経質にならずに生活できるのは、やはりきのくにでの5年間の寮生活からくる余裕かと思います。】


自分の好みと違う人の行動に、いちいち目くじらたてていては、共同生活はできませんものね。

お風呂のおばちゃんたちが寮生活したら、どうなるんでしょ。

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2006年12月 1日 (金)

親バカかもしれませんが・・・

Fは通信制高校なので、毎日朝起きて、高校へ行く、という生活ではありません。

出かける用事がなく、家でギターの練習の日、福岡に泊まり込みレッスンの日、朝からバイトの日、夜バイトの日、高校のスクーリングの日、昼は練習、夜はコンサートを聞きに行く日、高校の課題に取り組む日、ほんとにめまぐるしいです。で、彼は、それらの予定を全部手帳につけて、自分で行動しています。


昨夜は夜バイトで、10時頃、「みんなと温泉入って帰るから、ちょっと遅くなるわ。」と電話があったので、じゃあ11時くらいになるのかあ、と思って待っていたら、帰ってきたのは12時過ぎ。その温泉は、知り合いの人の温泉で、出てからみんなでおしゃべりしてた、とのこと。


周りはみんな年上ばかり。「疲れたでしょ。明日の朝も早いのに。」と言ったら、「いや、話し、楽しかったよ。」と元気な様子。


そして、今朝は6時半に起きて、ご近所のご夫婦(50歳くらい)と70過ぎのおじさまと、4人でゴルフに出かけました。普段何もない日はお昼近くに起きるFが、自分でさっさと起きて支度して。スコアもなかなかだったそうで、久しぶりの運動、さわやかな笑顔で帰ってきました。


ギターやソルフェージュのレッスンで遅くなるときは、教室に泊まるのですが、最近は、バイト先の奥さんのご両親(お店で何度も会ったことがある)が福岡に家があるので、そこに泊まらせてもらったりもしています。


Fは決して社交的なほうではありません。どちらかと言えばおとなしめ、無口、と言われたこともあります。それが、変に気を遣わずに、大人と普通に自然体でつき合っているのを見ると、やっぱり自分でいられるからなんだろうな、と思うのです。人からどう思われるか、なんていうことを、あまり意識していないみたいですし。

付き合いの範囲がどんどん広がって、すごいなあ、とFを見ています。


自然体でいられる、人と上手にコミュニケーションがとれる、情緒が安定している、その価値の大きさを、しみじみ感じる今日この頃です。


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