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2006年10月 5日 (木)

読み書きそろばん、何のため?

3日の記事『柔らかいアタマ』へいただいた、kitaguchi様のご質問について、考えてみました。

今日は

【九九は実生活に必要ない、でしょうか?その点に関しては少し疑問です。
生きていく力、という点では、九九ができない、ある程度の漢字が書けなくては(また読めなくては)コンビニで働くことも苦労するのではないでしょうか。】

という点に関して、私の考えを書きます。

まず、私が書いたのは、「九九が必要ない」ではなくて、「九九が【言える】必要はない」ということです。

つまり、オウムみたいに、「ににんがし、にさんがろく・・・」と【言える】ことが重要ではない、ということが言いたかったのです。わかりにくい書き方で、すみません。


実際、きのくに子どもの村学園では、カリキュラムのなかに、ちゃんと「基礎学習」の時間があり、そこでは、数やことばについて学びます。

「基礎学習」に関しては、堀さんの著書、『きのくに子どもの村ー私たちの学校づくり』(ブロンズ新社)のp80~83をご参照ください。この本が書かれてから、数年たっていますので、今現在、さらに進化しているかもしれませんが、基本的には、こんなところだろうと思います。

担任手作りのプリントが使われたりもします。その場合も、プロジェクトで取り組んでいる事柄や、自分たちの身の回りのことを、数えたり、計算したり、読んだり、調べたり、漢字を書いたり、というふうにしています。

算数、国語の知識は、必要ですが、あくまでも、より楽しく生きるための道具であって、それをいかに使いこなすか、ということが大事なんだと思うのです。四字熟語、漢字は知っていても、人とうまくコミュニケーションとれないというような、不自由な物知りを育てる教育とは、まったく別物、ということです。

大変共感している堀さんの文章、引用します。

【もし計算の正確さと迅速さが算数の基礎学力だなどというなら、算数の魅力が台無しにされてしまうだろう。計算よりもっと基礎的なのは、数を使って考える態度と能力である。現代の子どもたちは、機械的なドリルや自分にとって何のかかわりもない応用問題を押し付けられ、数や形を使う喜びも数学の世界の美しさも奪われてしまっている。

国語も同じだ。必要以上に多くの漢字や熟語を、しかも異常なまでに正確に紙の上に再現するように強いられている。あるいは他人の文章をその著者の意図通りに読み取ることを求められている。漢字や熟語の暗記、あるいは名作の鑑賞よりも、もっと大事にしないといけないのは、ことば(文字とはかぎらない)を使って表現したり交流したりする喜びではないだろうか。】

『自由学校の設計』 堀真一郎著 黎明書房 p89より

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コメント

mamiちゃん、援護射撃させていただきます。

kitaguchiさん、こんにちは。
私もきのくにの保護者の一人です。
私なりにもこの疑問について答えてみたいと思います。
一保護者の意見としてお聞き下さい。

>ちょっと思ったのですが、九九は実生活に必要ない、でしょうか?その点に関しては少し疑問です。


必要無いのではなくて、小学校の2年生の時期に必ず覚えなければこの世が終わるわけではないだけです。
きのくにの子供達も学校で九九の勉強はしています。
ただ強制的に何が何でも覚えないと人間失格の烙印を押されないだけで、いつもまじめに勉強しています。
きのくにの大人(先生)はそれを気長にじっくりと待って、子供達を育ててくれているのです。
自由教育を一般で行われている管理教育の観点で考えては誤解を招きます。
それぞれの子供が九九の必要を感じた時に覚えれば良いだけで、それが小学生でなくても、中学2年でも、高専の2年でも良いと私は考えています。
事実私の息子2人も、上は現在中2ですが小学校の時は全部覚えていませんでした。うろ覚えで「えーっと なんだったかなぁ?」こんな感じでした。
さすがに今ではそれでは不自由らくしく覚えているみたいですが・・・
下の子は小学校5年です。未だに覚えるのが面倒なようで、その都度足し算をしています。
物凄く不効率なようですが本人にとっては今のところそれが一番しっくりと来るのでしょう。
いずれこれに不自由さを感じれはそれこそ一日で覚えてしまうと思います。
なにもそんなに慌てる必要は全く無いのです。
ゆっくり、ゆっくり育っていけば良い、それが許されるのが、きのくにです。


>生きていく力、という点では、九九ができない、ある程度の漢字が書けなくては(また読めなくては)コンビニで働くことも苦労するのではないでしょうか。


これは管理教育で育った人の考え方です。
管理教育では全てが完璧に出来ていないと人間失格な訳です。
もし社会にでて読めない漢字があったり、書けなかったりすると、もうそこでその人は人生の落伍者の烙印を押されてそれでおしまい・・・
これが管理教育の理念です。

きのくにで育った子供達は、もしその時に分からない事があれば直ぐに勉強して自分の物にします。
理解力も早いし自己否定もしません。


>抽象的理想論ではなく、現実的に「生きていく力」というのはどんなものだとお考えですか?


決められたレールに乗った人生ではなくて、本当に心から自分の生きたい人生を歩んで行ける力だと考えています。


>九九や漢字に限らず、一見無駄と思えることを勉強することこそ総合的な生きる力や学びに通じることもあるのではないでしょうか?


勉強する事は無駄ではありません。
ただ管理教育で行われているのは、私は勉強だとは思っていません。
色々なパターンの暗記だと認識しています。
テストに出される様々な問題の解き方をいかに多く覚えるか・・・これが管理教育で行われている勉強と呼ばれる拷問だと思っています。
本当に物事を自分で考え自分なりの答えを見つけているとは、到底思えないからです。


>また、きのくにはテストがないそうですが、テストはこどもがどれだけ理解しているかの目安でもあり、テストなくしてどうやってこどもの理解度を判断されているのでしょうか?


手前味噌ですが、私の子供の頃の話を書きます。
私自身、小学校の3年生までの成績はトップクラスでした。
母親が毎日横に付いて特訓の毎日でした。それはもう地獄の日々でしたが・・・
その時の話なんですが、算数で少数の計算がありますよね。
私は掛け算は足し算の延長・・・の認識でした。
ですから掛けると値は大きくなるはず・・そんな誤解です。
でも0.1×0.1=0.01これがどうしても納得できずにいました。
掛け算をしてるのに何故小さくなるの?
この疑問をずっと説明できないでいました。
ところがこんな事をしていると授業についていけなくなってしまいます。
何も理解せずに計算方法だけを覚え、答えは合っています。
で、テストの結果は、ほぼ万点です。
テストによって私は掛け算を理解している子供として扱われます。
でもこれって本当に理解しているのでしょうか?
計算だけは出来るがその実態は全く把握できていない。
これが後々私の数学嫌いに発展して行くのです。
こんなテストで理解力を判断するのなんて無意味です。
今、大学では入学してきた学生の質の悪さにほとほと困っているようです。
彼らは勉学を学んできたのではなく受験に受かる方法を学んできたのです。
彼らの目的は受験に合格する事、それだけです。
これが本当の勉強と言えるでしょうか?
今、AO試験なるものが行なわれています。
これは学生の本当の姿を見るためのテストです。
この子は何を勉強したくてこの学校を選んだのか?
それを教授自ら面接をして確認するというものですね。
そこまでしなければ学生の本質を見抜けない所まで来ているようです。
きのくにでこのAO試験で入学した子がいます。
この子の管理教育でいうところの学力ならばこの学校には絶対に入学する事は出来なかったそうです。
でもAOでこの子は入学できました。
そして、その入学した年の一学期・・・彼の成績は学年でトップクラスでした。
聞くところによると、それはもう血の滲むような努力をしたそうです。
彼は何が何でもこの学校でしたい勉強がありました。
その為に頑張る事が出来、わずか3ヶ月で結果を出したのです。
これが、きのくにの底力です。
自由教育の結果です。
管理教育で育った人は「彼だから出来たんだ」って言います。
違います。きのくにで育った子供であれば誰だって出来るんです。親では無く、本当にその子自信が望むのならば。


>全員の習熟度を普段の様子からひとりひとり把握しそれぞれの子に合った教え方をされているなら、それはすばらしいことだと思います。本当にそんなことができるのでしょうか?


きのくになら出来ます。
ただその判断基準を管理教育で測る事は絶対に避けなければなりません。
われわれ親は管理教育で育っているので仕方ないと言えばそれまでなんですが、この考え方を改めないと子供達に害を与える事しか生み出せません。
きのくにの保護者の中にも「四年生にもなって九九が言えないのは何故?ちゃんと勉強させて・・・」みたいな事を学校に抗議にこられる方がいます。
折角この教育を受けながら、このような感想しか持たれないのなら何故きのくにに入学させたのか疑問です。
せっかくの子供の未来をドブに捨てるような真似は避けて欲しいと思っています。


>以前の書き込みで、やりたいことが見つかるまで好きなことをしていればよい、というものもありましたが、たとえば、ギターでなくて、息子さんがゲームおたくになって部屋にこもりきりで、そして、これが自分のやりたいことだと言って10年、20年たっても、ずっとその「気持ち」を応援なさいますか?


私の上の子供はゲームマニアです。
とにかくゲームが好きでプログまで書いてます。
以前はローマ字が全くわからずにいましたが、プログを書くようになって文字をタイプする必要に迫られ覚えてしまいました。
タイプする事の早い事、早い事。
それと動画の加工などにも興味を示し、最初は私がとっかかりを教えたんですが、今ではこちらが色々教えて貰ってる始末です。
今まで読めなかった漢字などもゲームを通じて読めるようになってるし、好きな事を十分に楽しむと言う事は色々な良い副産物を生み出します。
ディスプレイを見ているからなのか、遺伝なのか、少々眼が悪くなってきました。
でもそれを気にして、何とか治す方法はないものかと今母親と一緒に就寝前ヨガに励んでいます。
とにかくどんな事でも自分で決めて自分で行動しています。
親の側からは一切の強制はしません。
これが今後の自立の基礎になると思っています。
今後このゲームからどのような展開になるのかと楽しみでなりません。
何か嫌な事から逃げる為(管理教育での勉強?)にゲームに没頭しているのならば問題あるかも知れませんが、ゲームが本当に好きで行ってるのであれば何ら問題は無いと考えています。

投稿: ちゅりぼう | 2006年10月 5日 (木) 22時37分

ちゅりぼうさん、こんばんは。

すご〜い!なんて強力なサポートでしょう!ありがとうございます。
私、しばらくゆっくりしていられそう。(笑)

>ただその判断基準を管理教育で測る事は絶対に避けなければなりませ>ん。

そう、ここがポイントなんですよね。きのくに子どもの村学園を、管理教育の価値観で判断しようとしても、無理なんですよね。土俵が違うというか・・・。

ちゅりぼうさんの書かれた、具体的な事例で、その点がだいぶ理解できたかたが多いのではないかと思います。

少数点のかけ算の話し、たしかに、とうなずきながら読みました。ちゅりぼうさんも、しんどい子ども時代を送ったのね。(握手!)

投稿: mami | 2006年10月 5日 (木) 23時04分

mamiちゃん、こんにちは。
私もkitaguchiさんの質問に答えさせていただきます。

私も、きのくにの保護者の一人です。
私が感じた中で管理教育と自由教育との大きな違いは、自由教育は人間の心、気持ちを重要視していると言う事です。
自由教育は、大人からの罰則はありません。
失敗しても良いのです。
「責任は大人が取るからやってごらんなさい。」と言うスタンスです。
ですから、出来ないと言う事に対する恐怖も自己否定も生まれない。
大人が子供たちの気持ちを大切にする事によって、子供たちは大人に対する恐怖がありません。
これが最大のポイントなんです。

管理教育は例えると一つの工場である。
一年生までは、これが出来ていなければいけない。
二年生までは、これが出来ていなければいけない。
そして、不具合がないかどうかテストしてみる。
でも、スケジュール通りに進んで行かなければいけないから、多少の犠牲は仕方がない。
六年生を卒業する頃には奇麗な製品に仕上がっていなければいけない。
ある大学の教授がとても分かりやすく言っておられました。

管理教育は出来る、出来ないにポイントを置いた実に教える側からだけの身勝手な教育だと思います。
教えられる側の気持ちは全く無視です。
出来なければ貴方は不良品なのよと言っているようなものなのです。
そんな空気の中で育つのは自己否定でしかありません。
そして大人に対する不信感です。
これは人間が成長していくにあたって最大の枷になります。
よく考えてみると世間一般では普段の生活でも子供は何も分からない無法者だというのが暗黙の定説になっていると思いませんか?
それは、子供というものをよく理解していないからそう思うのであって、子供のすることには必ず理由があります。
それは、大人が思っても見ない理由ですが、なるほどと思う理由です。

きのくには、子供の本質をよく研究し、理解した教師達が影の大人となって子供たちを支えています。
そして、自己否定のない環境のなかで、プロジェクトという重要な授業があるのです。
一つの椅子を作るにも算数は必ず出てきます。
何の関連性も持たずに突然九九を覚えさせられるのと、実践から学ぶのとでは大きな違いがあります。
同じ数字を何回も足していく要領の悪さに子供が気づき九九の意味や合理さに気づいたとき興味という物とともに驚くほどの速さで記憶するのです。
大人から見れば、要領の悪い事をしていても、黙って見ている辛抱強さが必要なのです。
先に答えを言わない、一つの答えだけを誘導しない。
子供に見つけさせるのです。
これは、とても時間が掛かるし、個人差ももちろん出ます。
でも恐れる事はありません。
自由教育を受けた子供はストレスに強いそうです。
皆違って当たり前。
今自分はこれが出来ないのは、自分がそれをやっていないから。
やれば出来ると信じているし、実践によってイメージが出来上がっているので、やるときは集中して出来るのです。

引き篭りは本人ではなく、親や、周りの環境に原因があると思います。
きっかけはゲームからでもそれを否定しなければ色々と広がりを見せていきます。
引き篭もり=ゲーム=悪と捉えるのは、社会の変な固定観念に影響されているのではないですか?
ゲームと引き篭もりは別の問題だと思います。

投稿: びいぶ | 2006年10月 5日 (木) 23時15分

通りがかりにふとわいた疑問を書いて、なぜ「射撃」されるのかわかりません。
なんだか子どもの問題というより、ご自身の問題のような気もします。ご自身でみつけられなかったもの、のりこえられなかったことを管理教育に責任転嫁させていらっしゃいませんか。親御さんもそのときにできることをしようとそれなりにかんがえられたのではないのですか。それがみなさんにとって間違っていたとしても、それだけが原因ではないでしょう。
でも、もう私に対してのお答えは結構です。たいへん失礼いたしました。

投稿: kitaguchi | 2006年10月 6日 (金) 13時53分

私の友人にこどもをきのくにへ転校させた方がいます。
彼女からきのくにの素敵な話をいくつも聴かされ、
公立しか選べない我が家(子三人中流家庭です)の状況と
比べるたび、うちはこのままでいいのか?と焦りました。

が、手前味噌ですが、三人とも公立の小学校〜高校を卒業、
在学中、で、地域にたくさん友だちもあり、健やかに
育ってくれています。
きのくに保護者の方には「公立」はよほどひどい所と映るようですが
私はそんなに抵抗を感じませんでした。
こどもたちは、テストや宿題や受験や校則などで、それなりに
苦しんだり疑問を感じたりしていましたが、おおむね楽しく
それなりに成長してきました。
今では、「学校ではいやなこともあったけど、それもいい経験に
なったような気がする」
「こんな勉強なんのために?と思ってたけど、やっててよかった、
と全然関係のないところで思うことがある」
などと私も驚くようなことを言ってくれます。

きのくにに転校していった友人の方は、こどもさんはどうかわかりませんが、おかあさんの方は、どんどん変わっていかれました。
他の考えを受け付けないというか・・自由ということにあまりにも囚われ過ぎて、話していて息苦しくなります。
例えば、ちょっとしたこどもの日常の愚痴でさえとても大きな問題のようにとらえて話が飛躍しついていけなくなります。
君が代の話が出た時も、私は公立の式典で、着席している自由がありましたし事実そうしていました。でも、彼女の話をきいていると、
逆にきのくにでは君が代を歌う自由がないのでは?と思わされました。(もちろんもともと歌わなくていいのはとても羨ましいことです)

私は、彼女との接点から、このブログにも興味があり時々拝見していました。皆さんとてもよく勉強されていて感心します。
失礼ながら、先のKitaguchiさまのコメントに対するたくさんのレスを第三者として読み、少し宗教に似た印象を持ちました。
こう書くと、公立にしか行けなかった貧乏人のひがみ、
或は、管理教育に染まった者の発想としかとらえられないかもしれません。
ただ、コメントを募っておきながら、違う考え方を徹底的に否定するというやり方に少し憤りを感じましたので。
失礼します。

投稿: SUGI | 2006年10月 6日 (金) 15時19分

突然の書き込み失礼致します。
わたしはずいぶん前のきのくに卒業生保護者です。
懐かしい名前を目にして読ませていただきましたが、気になることろがいくつかございました。
民主的なこと、個人を重んじること、違いをわかることと言いつつ、気に入らないならやめろ、というのは少々違うのではありませんか?
すぐに抗議する親も、気に入らなければやめればいいのに、という親もどちらも極端すぎます。
わたしも子どもが在校時代、疑問点はいくらでもありましたが、それを口にして、じゃあやめれば?と言われたことはありません。今のきのくには、学校もそのようなかんじなのでしょうか。いくら基本的な考えに賛同して入学したからといって、何もかも考えが同じというのはそれこそ変ではありませんか?言いたいことが言えるのが民主的なのではないのですか?mamiさんの民主主義などに関する文章には共感するだけに残念です。
上の書き込みはとても攻撃的で、こうあらねばならぬといったかんじでうんざりしました。

うちの子どもも、いいと思うことも、おかしいと思うことも家で両方話していましたよ。おかしいと思うこととのおりあいを見つけることもわたしは世界で生きていくには必要なこともあるかと思います。誰もパーフェクトじゃないし、いわゆる成功例だけをあげて、誰もがこうなる、といったような話はやめたいです。それが子どもたちにプレッシャーになるとおお思いになりませんか。じっさい過去に卒業生にもいろいろありました。それらも全て同列に論じて、すべて受け入れるというのが本来の自由教育なのではないのですか?
子どもたちはきのくにで、言いたいことがちゃんと言えて、ちゃんとした話し合いを今できているのでしょうか。家でも言いたいことを言えているのでしょうか。不安になりました。

学費の件に関しましても、随分前にも経済的に続けられずに辞めていかれた方はおられました。内容を考えれば高くない、と言っているのではなく、物理的に捻出不可能な家庭に対する想像力が全く感じられません。ご自分の世界のことしかお考えになっていないようです。わたしは子どもをきのくにに通わせられる経済力をいつも感謝しておりました。来たければ来ればいいじゃない、というふうに、傲慢にならないでほしいと思います。保育園がきのくにより高かったという書き込みをされた方もいらっしゃいましたが、その方の経済力の自慢をされたところで、何も解決になりません。
どうしても無理な方のためにも、管理教育自由教育といった両極端な話ではなく、子どものことを考える教師(公立校、私立校問わず、いるところにはいるはずです)が増えることを願ったり、そのための手助けになるような活動をしようとは思われないのでしょうか。堀さんもそのようにおっしゃっているのではないですか?

あと、気になったのは反抗期のくだりです。
強圧的な親に対する反抗と、成長過程で自然におこる大人への反抗や親と距離をとりたいと思う気持ちとは、全く違うものです。ある子もない子もいます。どちらかというと、あるほうが自然と思います。
うちも反抗期がありました。そのことをスタッフの方に話すと、きのくにの、特に寮に入っている子は反抗期が一般の子どもより早く来る、私にも反抗期のような態度をとることもありますが成長してる証ですね、とおっしゃっていましたよ。スタッフの方ですら、自分の子どもは反抗期でと話す方もいらっしゃいました。
また、息子さんとのスキンシップのこと、これば公開ブログで息子さんのお友達も読まれる可能性があるのですよね。息子さんはこのことを世間一般、しいてはお友達に知られてしまう可能性のあることをご存知ですか?

きのくにが、すごくエキセントリックな学校だと思われるといやだなと思って書きました。
私は自分の子どものことは、かれらのプライバシーですから書きたくはありません。


投稿: nyan | 2006年10月 6日 (金) 15時44分

わあ、すご〜い。みなさん、こんなにたくさんコメントしてくださって、ありがとうございます。未だかつてない量ですねえ。すっごく参考になります。

いろいろ書きたいのですが、今は時間がないので、後日。とりあえず、kitaguchiさんが気分を害された【援護射撃」について。

これは、私も、気分を悪くされないかな、とちょっと心配になりました。で、返事コメントのなかで、「サポート」と言い換えてみたんですが、救いになりませんでしたね。ごめんなさい。

ところで、みまさな、コメントの口調がちょっときついんですけど、よっぽど怒りがたまっているのでしょうか?今後はなにか気になる記事があったら、爆発する前に、小出しにしてくださいまし。

では、また。

投稿: mami | 2006年10月 6日 (金) 16時48分

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