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2006年10月 3日 (火)

柔らかいアタマ

きのくにで、「自分のことは自分でやり、体を動かして学び、自分で工夫しチャレンジできて、友達と力を合わせて何かをつくりあげ、失敗を責められず、人と比べられない、そして大いに笑う」、そんな生活を送ると、ほんとに、ほれぼれするほどすてきな人に育ちます。自立していて、穏やかで、自分も人も認められる、そんな人間に成長します。

私は、それだけでもう十分だと思うのですけれど、「いい子に育つのはわかったけど、学校の勉強はどうなの?受験でやっていけるの?」っていう人が、必ずいるんですよねえ。やれやれ。

きのくにの保護者であっても、「うちの子はまだ九九が言えない」と、焦ってる人がいるという話しも聞いたことがあります。(なんで子どもをきのくにに入れたんだろ。)

「九九が言える」って、そんなに重要なことなんですかねえ。

そういえば、うちの息子たちが、九九を言えるかどうかなんて、考えたこともありませんでした。(Fは言えるのだろうか・・・?)

でも、小さい子でもイギリス行ったときには、向こうのお金で買い物して、友達と割り勘でおやつ買ったり、おつりもらったりできてるし、それで何の問題もないでしょう?


Nが小学生のとき、134円のを5個買ったらいくらだっけ、という話しになったことがありました。一緒に買い物に行って、お財布の中身が乏しかったので、お金が足りなくならないように考えなくてはならなかったのです。(ひえ〜、貧乏!)

で、私は計算がものすごく苦手です。ぼ〜っと、考えていると、Nが「670円かな」と言ったのです。

私:「ええ〜、早い!多分それで合ってるよ。(多分、というのが情けないが)どうやって計算したの〜?」

N:「ええとな、まず100が5つだから500やろ、それで、30が5つで150で、それで650。で、4かける5が20やけん、それたして、670かな、と思って。」

私はいきなり134×5をしようとして、頭ごちゃごちゃになっちゃうんですが、Nの柔軟な考え方に、ほえ〜、すごい!と脱帽でした。

こういう考えがすんなりできるのは、普段、プロジェクトで活動するなかで、いろいろと問題にぶつかり、そのたびに、「じゃあどうしたらいいんだ?」というのを、自分の頭で考える習慣がついているからだと思います。

Nが九九を全部言えるかどうか、わかりませんよ。でも、私はそれが、実生活上、必要なことだとは思っていないので、気にもなりません。そんなことより、柔軟に、いろんな方法で考えてみる、という態度が備わっていることこそが、生きていくうえで大切なことではないでしょうか。

(「受験」に関しては、8月10日『受験て何よ』の記事に書いた通りです。)

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コメント

いつも読ませていただいています。
自由教育にとても興味があり、むすこさんの学校生活がとてもうらやましいです。
ちょっと思ったのですが、九九は実生活に必要ない、でしょうか?その点に関しては少し疑問です。
生きていく力、という点では、九九ができない、ある程度の漢字が書けなくては(また読めなくては)コンビニで働くことも苦労するのではないでしょうか。
抽象的理想論ではなく、現実的に「生きていく力」というのはどんなものだとお考えですか?
九九や漢字に限らず、一見無駄と思えることを勉強することこそ総合的な生きる力や学びに通じることもあるのではないでしょうか?
また、きのくにはテストがないそうですが、テストはこどもがどれだけ理解しているかの目安でもあり、テストなくしてどうやってこどもの理解度を判断されているのでしょうか?
全員の習熟度を普段の様子からひとりひとり把握しそれぞれの子に合った教え方をされているなら、それはすばらしいことだと思います。本当にそんなことができるのでしょうか?

以前の書き込みで、やりたいことが見つかるまで好きなことをしていればよい、というものもありましたが、
たとえば、ギターでなくて、息子さんがゲームおたくになって部屋にこもりきりで、そして、これが自分のやりたいことだと言って10年、20年たっても、ずっとその「気持ち」を応援なさいますか?


もうひとつ根本的な疑問があります。
ここで語られている「きのくに」での自由教育を受けることによって今日、書かれていたような「ほれぼれするような人間」になると、断言しておられますが、世の中では圧倒的に従来の「不自由教育」を受けた人がほとんどですよね。「きのくに」の教員のみなさんも、きっと。以前ここでも書いておられましたが、いわゆるいい学校をでていなくてもすてきな生き方をしている人にいっぱい出会ったと。
「自由教育」を受けたことと「ほれぼれするような生き方」ができることは直接関係ないのではないでしょうか?

書いているうちに、思わず質問がひろがってしまいましたが
このブログを読んでおられる多くの「ごく普通に育ちかた」をした人たちの共通の質問でもあるかと思いますので、
ぜひ、お答え願いたいと思います。

投稿: kitaguchi | 2006年10月 4日 (水) 18時19分

kitaguchiさん、コメント、質問、ありがとうございます。

うわ〜、いろいろ書いてありますねえ。うれしくって、腕が鳴ります。(書きたくて腕がうずうずする、ということです。)こういう問いかけいただくと、さらに考えを深めるよいきっかけになるので、大変ありがたいです。ワクワク。。。

他のかたも、がんがん、kitaguchiさんの問いかけに絡みついてください。(私の表現おかしいでしょうか?)

最初の三つの質問
・九九ができない、漢字が読めない、書けないと、実生活で、困るのではないか
・テストがなくて、どうやって習熟度をはかるのか
・ゲームお宅になって、10年、20年息子がこもりきりになっても、それを応援できるか

に関しては、明日以降の記事のなかで、一つづつ、私の考えを書いていこうと思います。すご〜く長くなるので。

で、最後の、「自由教育をうけたことと、ほれぼれするような生き方ができるようになること、とは関係ないのではないか」にだけ、お答えします。

【きのくにで、「自分のことは自分でやり、体を動かして学び、自分で工夫しチャレンジできて、友達と力を合わせて何かをつくりあげ、失敗を責められず、人と比べられない、そして大いに笑う」、そんな生活を送ると、ほんとに、ほれぼれするほどすてきな人に育ちます。自立していて、穏やかで、自分も人も認められる、そんな人間に成長します。】

私の書いたのは、この↑文章ですが、「きのくにで育たないと、すてきな人には育ちません」とは書いていません。逆もまた真なり、ではないです。

おっしゃる通り、きのくにの卒業生、在校生の人数は、日本の人口に比して、まだほんのわずかなわけで、それ以外に「すてきな人」がいないとしたら、えらいこっちゃ、ですもの

そして、人は育った環境、出会った人、によって、大きく影響を受けます。

きのくに子どもの村学園の理念に基づいた自由教育を知ると、そこで育つ子どもたち、そして保護者も、大いに変わり、成長します。結果、自立した、すてきな人に育ちます。

「断言しておられますが」ということですが、まあ、細かいことを言えば、そうじゃない場合もあるかもしれない。でも、それは、子どものよさを受け止められない親のほうが問題だ、というふうに感じています。

その点を書き出すと、文章がややこしくなるので、省いている部分はあります。それで、「断定的」とお感じになるところがあるかもしれません。

とりあえず、四つ目のご質問に関しては、こんなところです。お答えになっていますでしょうか。


投稿: mami | 2006年10月 4日 (水) 20時40分

すみません、一番大事なご質問のこと、書き忘れていました。

【抽象的理想論ではなく、現実的に「生きていく力」というのはどんなものだとお考えですか?】

というところでしたね。これも、後日、記事内にて。

投稿: mami | 2006年10月 4日 (水) 20時50分

 うちの息子たちは、小学校4年生からと2年生から9年と11年間きのくににいました。
今、21歳と19歳。

 ふりかえると、子どもは、正比例のグラフのようには成長しない、とつくづく感じます。

 うちの息子たちの場合は、たまたま二人とも中学になってから、今までつけていた力を私が感じ取れるようになりました。
私にしたら、突如とした変化に見えたのですが、彼らの頭と体のなかに蓄えられていた力を私がやっと感じることができたのかもしれません。

 きのくにの事を書いたり、誰かに尋ねられて説明しようといろいろ思い出し考えていると、ふと忘れかけていたことをはっきりと思い出すことがあります。

 上の息子が公立小学校に行っていたとき、息子は、すでに覚えていて書ける漢字を何回も書くという宿題が嫌いでした。

 ある参観日、国語の授業。新出漢字を板書し、子どもに漢字の用例を発表させて、板書しそれをノートに写させるという作業をしていました。余白には、家に帰って漢字を“練習”します。息子が手を挙げて発表した熟語は、小学校2年で習う言葉ではなかったらしく、センセイは「はい」くらいは言ったかもしれないけど、その答えについてはノーコメント、無視状態。そのときはたまたま、授業の進行が予定どおり進まず急いでおられたのかもしれないけれど、何年生では何をって決まっているのはタイヘンナコトダと思いました。「まあ!難しい言葉を知ってるのね」と言うくらい別にそんなに時間要らないだろうに、とはおもいましたが。
 
 興味深い事柄で、出会った言葉はいっぺんにアタマに入る。杓子定規に区切ってやるから大変なのだろうときのくにに行ってからより強く思いました。

 私は、息子が九九をちゃんと言えるかどうかは知らないのですが、下の息子は、きのくに国際高等専修学校を出て、家具作りの塾に行きました。一緒に入学試験を受けた同期生は社会人だった人たや大学卒業者がほとんどです。家具を作りますから必要な“算数”はわかっているのだろうと思います。

 辛いこと、嫌いなことを我慢してでもやって、そのことでつく力、もあるとは思いますが、

たとえば「忍耐力」について言うと、
息子たちをみていると、
mamiさんが書いておられるように「自分のことは自分でやり、体を動かして学び、自分で工夫しチャレンジできて、友達と力を合わせて何かをつくりあげ、失敗を責められず、人と比べられない、そして大いに笑う」そうしているうちについてくる忍耐力というもののほうが本物のような気がします。
 ただただ「忍の一字」っていうのではなく、まわりと自分のかかわり、それぞれの役割を知っているから、今自分は何をすべきかということが分かっているから、
 まわりからみると、忍耐強く、根気がある、というふうに感じるのです。しかも、機嫌よくしている。

 わたしも、きのくにだけがいいとはもちろん思っていませんが、ちょっと違う視点から教育というものを考えたら、こんなにうまくいく方法があるのになぁー、たくさんの人が気づかないでいるのはもったいないな、とは思っています。

【ほんとは、もったいないだけでは、すみません。
次々と親を殺したい子が現れ、多くのこどもが、生きることは辛いと思って生きているのですから。】


 

投稿: piriri | 2006年10月 5日 (木) 20時23分

piririさん、かゆいところに手の届くようなお話、ありがとうございます。一字一句同感です。

>こんなにうまくいく方法があるのになぁー、たくさんの人が気づかな>いでいるのはもったいないな、とは思っています。

特に↑この点、ほんとうにそうです。最後の【 】内の部分も。

投稿: mami | 2006年10月 5日 (木) 21時41分

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