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2006年10月31日 (火)

学習指導要領

ここのところ、高校での履修単位不足の記事をよく目にします。

そんなに騒ぐことなんですか?

校長がでてきてお詫びしたり、保護者会開いたり。どこの学校でも、知っててやったんでしょ?だったらもっと開き直っちゃえばいいのに。

「そもそもこんなにたくさんの科目を勉強させる、指導要領がおかしいんです。これを機会に、見直しをしていただきたい。」

くらい言える校長がいたらいいのに。

どこかの高校では、海外の修学旅行を、世界史の単位に当てていたとか。まあ、どれほど中身のある修学旅行か、報道だけではわかりませんが、その発想はいいんじゃないですか?

机に向かって、年号を暗記するだけの勉強をするくらいだったら、実際外国に行って、その国に興味を持ち、調べたり、歴史を学んだりするほうが、ずっとアタマに残るでしょう。


履修科目もれ、日本中の高校で行われていて、すでに単位不足のまま卒業した人たちも、何も困らず大学生活、社会生活しているってことは、学習指導要領自体に欠陥がある、と考えるべきじゃないでしょうか?


ルールだ、決まりだって、こんなに騒ぐくらいなら、パトカーも守らない車の制限速度をなんとかしてよ!!

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2006年10月29日 (日)

中間休みにお客様

きのくに子どもの村学園では、春、夏、冬の長期休み以外に、10月と2月に約一週間の中間休みがあります。遠方から来ている子どもたちも、ゆっくり家庭で過ごすことができます。先日の運動会後、22日から29日までが、その中間休みでした。

今回の中間休みはいつもと違いました。なんと、Nの友達のAくんが、わざわざ大阪から遊びに来てくれたんです。運動会後、一緒に帰り、28日に戻りましたので、7泊8日!そして今度はNが、Aくんの家に泊まっています。明日の朝、一緒に登校するのです。

最初はちょっとどきどきでしたが、自然体の、とってもすてきな子で、私もあっという間に普段の調子になりました。子どもが1人増えたって感じ。

よく食べてくれて、Nと交互におかわりの茶碗を差し出すのが、なんだかとてもうれしかった。(Fはわりと小食なので。)

ある晩、夫が「ギンナン煎ろうか?」と声を」かけたところ、「いや、俺あんまりギンナン好きじゃないから」とはっきり言えているのですよね。変に遠慮したりしないので、ほんとに楽でした。
(*うちの近くにギンナンが落ちていて、山ほど拾ってきてあったのです。)


一週間ふたりずっと一緒で、疲れないかな、と思ったけど、そんな様子も全然ないのです。一人は昼寝、一人は子供部屋でギターを弾いてる、とか、二人で寝そべってマンガや本を読んだり、犬の散歩に行ってくれたり。

一緒に過ごすのと、1人になるのと、その間のとりかたがうまいなあ、と感心してしまいました。やっぱり寮生活していると、自然とそういうのが身に付いてくるのですね。

そしてNも、「今日は町内案内しようかな」、とか、「この日は市内まででかけて楽器屋さんでも見てこようかな」、とか、一応おもてなしも考えていたりして、微笑ましかったです。


Nは社交的で、うちに帰らない週末には、Aくんや、他の友達の家に泊まりに行ったりしていて、そのたびに、私はお世話になるばかりで申し訳ないなあ、なんて思っていたのですが、大分まで来てくれる子がいるなんて、ほんとにうれしかった。

でも、これって、先輩保護者さんたちに、言われてました。
「今はお世話になるばかり、って思うだろうけど、きのくにの子はフットワーク軽いから、心配ないわよ。どんなに遠くたって、平気で遊びにくるから。どど〜っと大挙して押し寄せてくるかもよ〜」って。

次回はもっと人数が増えてるかも。楽しみ楽しみ。

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2006年10月26日 (木)

大人は・ が・ の もんだい

五味太郎さんの『大人 は が の もんだい』 (講談社)という本、読まれたことありますか?

私、この本、大好きです。Fが小学校入学前に読みまして、目からウロコが落ちました。

長男が小学校入学、というと、どこの親もたいてい緊張する、というか、肩に力がはいるものではないでしょうか?それが、この本を読んで、すっかり力が抜けました。

まだ読まれたことのないかたのために、ちょっと抜粋しますね。全部面白いんですけど、ほんの少しだけ。


【よくフラれた腹いせに「わたしの青春を返して」なんて言う人がいますが、学校体制に向かっては「あの大事な時間を返してくれ」と声を大にして言っていいと思います。なにしろ最低で9年間ですよ。】


【男の子と女の子が部屋に入って、ドア閉めちゃうと、あやしい、いやらしいことをするんじゃないかって心配する大人は、なんのことはない、その大人自身がいやらしいのです。部屋で何をするかはその子たちの問題です。それが急にベッドに入るんだったら、もうその二人はとっくにデキてるんだから、あきらめるよりほかありません。

「門限は9時だぞ」なんて言ったって、8時に悪いことしたらどうするんでしょう。日暮れ前には帰ってこいって言ったって、じゃあ、昼間カーテン閉めてあやしいことしてたら、どうするんでしょう。ずうっと親がついてまわるのでしょうか。マンガみたいです。そういった子どもに対しての心配、不安、自信のなさというのは、自分に対しての心配、不安、自信のなさそのものなのです。】


いちいち同感です。多くの大人がこういう考えになれたら、つらい思いをする子が減るんだろうなあ。ぜひ、お勧めです。(多分、このブログをお読みになるようなかたは、すでにご存知だろうとは思いますが・・・)

今回、この記事を書くために、また読み返したら、先日書いた「運動会の思い出」の中の

「私、今の学校の構造、システムそのものが、いじめを発生させる一因ではないかとさえ思っています。」

ということも、五味さんの本にちゃ〜んと書いてありました。すみません、パクリ的でしたね。でも、この本がすっかり私の血肉になってしまったんです。

まじめな管理主義教師は、この本を読んで、どんな感想を持つのかな?

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2006年10月24日 (火)

運動会の思い出

私が通っていた小学校は、ひとクラス約45人で、一学年10クラス。つまり、全校2500人くらいの児童がいたわけです。そういう学校での、運動会全体練習って、もう地獄ですよ。

炎天下に整列させられ、右向け右、回れ右、行進、の繰り返し。おまけに、一学年ごとに、【小さい順】に並ばされる。

私はクラスで一番ちびでしたが、学年全体だったら私より小さい人がいるだろうな、という淡い期待は裏切られ、たいてい列の一番前になってしまうのです。「私は学年一番のちびで〜す」ということを、みんなに宣伝するかのように、【小さい順】に並ばないといけないなんて、いじめのようなものですよ!(怒り再燃!) 本人が一番気にしてるのに・・・。

それに、徒競走なんて、何度練習したって、びりはびりなのに、しつこくやらせるんですよねえ。ほんとに嫌でした。

私、今の学校の構造、システムそのものが、いじめを発生させる一因ではないかとさえ思っています。

こんなこと書くと、
「運動会が嫌だったのは、あなただけではないですか?」とか
「私は楽しかったです」とか
「嫌なことでも頑張って練習することに意義があるんではないですか?」
なんて言われるんだろうなあ。

言われる前に書いちゃいますが、「私は楽しかった」「つらかったのはあなただけでは?」という考え自体が、すでに、傷つきやすい子どもの心を推し量れない、大人の鈍感さであるような気がするのです。そういう鈍感さが子どもを追いつめていることに気付くべきだと思います。(うわ〜、コメントが恐い!)

「嫌なことでも頑張ればきっといい思い出になる」なんて言われたこともありますが、それは、【自分の意志で】その「嫌なこと」をやる、と決めた場合ですよね。

やるやらないの、選択の余地なくさせられたことを、「頑張ればよい思出になる」「努力することに意義がある」というのは、ちょっと違うんじゃないの? と思います。


私、四年生のときに、全体練習に参加しながら、「あと何回こんなことしなくちゃならないんだろう」と思ったことを、はっきりと覚えています。

綱引きの練習では、勝った方が「ばんさ〜い」と言い、負けた方が拍手するんですが、その練習までさせられたんですよ!!で、私、全然身が入っていませんでしたから、ぼ〜っとして、負けたときに、1人大きな声で「ばんさ〜い」と言ってしまって、大恥かきました。


何のためにやっているかもわからないまま、あれだけの時間をつかって、整列して、行進して、走って、ダンスして、疲れ果てて、なんだったのでしょう。苦痛以外のなにものでもありませんでした。先生だって、大変でしょうに。

勉強嫌いで体育得意だった夫は、授業よりまし、と言っていましたが・・・。

なんで、きのくにみたいな運動会じゃだめなわけ?ああいう運動会だったら、子どもも教師もストレスたまらないし、一日で終わるし、いっぱい笑えるし、かけっこがいつもビリだった私が、なんだか走りたくなって、リレーに出たりできるし、いいことづくめなんですけど。


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2006年10月22日 (日)

運動会、あ〜楽しかった〜

我が家にとっては7回目となる、きのくに子どもの村学園の運動会が、21日土曜日に開催されました。毎回ホントに楽しいです。

きのくにの運動会は、まず、子どもたちが「運動会委員」というのをつくって、委員の子どもたちが種目を決めます。各クラス(プロジェクト)に、何がやりたいかのアンケートをとったりするそうです。

練習、というものはなく、当日、司会の子どもがプログラムにそって、「玉入れをしたい人は集まってください」とアナウンスし、やりたい人が集まってくるのです。「やりたい人」というのは在校生(保育所の子、小学生、中学生、高専生)、卒業生、保護者、きのくにのスタッフ、などなど、とにかくその場にいる人、だれでも何回でも参加できます。

ちなみにNは「全部でた」と言っておりました。

「やりたい人」は、どど〜っと、たくさん集まってくるので、一つの種目がけっこう長い時間続きます。それを見ているのが楽しいんですよ。

借り物競争はほとんど毎年ある種目ですが、「借り物」がその年のアイデアでいろいろ変わります。今回面白かった「借り物」は「人間5人」というもの。みんな借りられたくてうずうずしてて、「人間5人」の借り物になると、どんどん人が増えてきて、最後は10人くらいがどど〜っと一緒に走ってました。


なんかね、きのくにの運動会って、自分の子を目で追う、というのももちろんあるけど、
「ああ、あの子、大きくなったなあ」
「ちょっと学校休んでたこともあったみたいだけど、もう元気になったんだ〜」
「自信に満ちた顔つきになったなあ」

と、よその子の様子を見るのが、すごく楽しいんです。

きっと、他の人たちも、そういう気持ちなんだろうなあ。ビデオやカメラを構えて前に陣取ってる人っていうのが、すごく少ないですもの。多くの保護者が笑いながら、のんびり座って見ています。そういう様子を見ていても、ああ、幸せだなあって、じんとしちゃいます。

よい一日でした。


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2006年10月19日 (木)

子どものための美しい国

ヤヌシュ・コルチャック作の、この本を読んだのは、もう、6〜7年前になります。『コルチャック先生』という映画を見て心を打たれ、彼のことを調べたところ、この本の存在を知りました。

ヤヌシュ・コルチャック氏については、ご存知のかたも多いと思いますが、一応、この本の作家紹介部分を転載します。

【1878-1942。ポーランドのユダヤ人作家・小児科医・教育者。子どもの権利を主張し、全国子ども新聞を発行、孤児院をひらいてそこに子どもの自治社会をつくった。ナチ支配下のワルシャワで、最後まで子どもたちと運命をともにし、トレブリンカ強制収容所のガス室で死去。】

コルチャック氏の功績を評価し、多くの人が救いの手を差し伸べ、逃げるチャンスはいくらでもあったのですが、氏は子どもたちを見捨てることを拒み、ガス室送りとなるのです。


この本のなかでは、父の死によって、幼くして王になってしまったマットが、子どもと大人のユートピアをつくろうと、改革にのりだします。

子ども国会ができ、大人は学校へ行き、子どもは会社で仕事をすることになります。また、大人社会に対する不満を述べたり、いろいろな改革案が提出されます。なかでも興味深かったのが、「大人が子どもに、やたらにキスをするのはおことわりだ」という決議です。

日本はそれほどキスするという習慣が多くはありませんが、この「決議」で大事なのは、大人は子どもがのぞむような愛情表現をするべきであって、大人の自己満足な愛情表現は、迷惑なだけ、それを忘れてはいけないぞ、ということだと思うのです。

先日の記事でもちょっと書きましたが、中学になる息子に「かわいい」と言ったり、やたら子ども扱いしてしまうのは、やはり失礼だな、と思うのです。ましてや、本人が「かわいい、なんて言わんで!俺、いくつやと思ってるん?」と抗議するまで、自分の無神経さに気付かなかったのは、まったくもって、不徳の致すところです。


さてさて、この『子どものための美しい国』は、画期的な改革をし、子ども新聞にも、

【こうしていまや子どもたちも大人と同等の権利をもつことになり、真の意味の市民となるだろう。今後子どもたちは罰をおそれて従順をよそおうのでなく、平和な、楽しい世界を待望するがゆえに心してくらすようになるに違いない。】

と書かれるようになります。しかし、マット改革王の行く末は、厳しいものになるのですが・・・。

この本が書かれた約80年前と今と、子どもの権利はどれほど進化したでしょうか?そして、某首相の言う「美しい国」とマット王が目指した「美しい国」、なんだか全然違うもののようです。


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2006年10月17日 (火)

無神経すぎ

数日前、福岡のある中学校で、二年生の男子生徒が自殺したという報道がありましたね。

遺書もあり、当初よりいじめが原因とみられていましたが、その後の調べで、一年生のときの担任が、その生徒に対して無神経なからかい(いじめと言っていいでしょう)をしていたことが発覚しました。

母親からの相談内容を、他の生徒に暴露したり、みんなの前でその子のことを、うそつき、偽善者呼ばわりしたり。他の生徒に対しても、イチゴの種類になぞらえて、等級付けをするような発言をしていたとのこと。

この報道を目にして、怒りに震えました。明らかにこれは、先生がその子を標的にしていて、みんなに「この子はいじめてもいいんだよ」というサインを出しています。マーキングです。それを「からかいやすかったから」と言うとは、なんという無神経さ、なんという狡猾さ。そして、そんな人が、今は学年主任ですって。

これに類することは、これまで何度も報道されてきましたよね。親のどちらかが外国人の子を、「血が穢れている」などと言って、重いPTSDを負わせたという事件もありました。


Fが通っていた地元の小学校でも、そういう先生がいました。一人の子を標的にして、みんなの前でお尻をだしてたたいたり、保護者会でも、その子のイニシャルをだして、その子にどれだけ迷惑をかけられているか話したりしていました。

先生がそういう姿勢だと、その子自身も、「自分はだめなやつだ」「いじめられてもしょうがない」と思ってしまうし、周りの生徒も、「あいつならいじめてもいいんだな」と思ってしまうのです。


こういうことをする先生は、ほんの一部なのでしょうか?ほとんどはまじめな、良い教師なんだから、特別なそういう事件にいちいち腹を立てるのがおかしいのでしょうか?

私は、それをした先生個人の問題だけだとは思えません。根本は、子どもの人権を尊重しない傾向のある、日本の社会に問題があるのだと思うのです。

忘れ物をしたからげんこつで殴られてもしょうがない、運動場に集まるのが遅かったから、先生に「おめえら、さっさと集まらんか!」と罵声をあびせられてもしょうがない、そんな空気ができてしまっているのがおかしいんです。

会社で、上司が遅刻した部下を殴ってもいいのでしょうか?部下が訴えれば傷害罪になりますよね。
毎日毎日、上司に口汚くののしられて、鬱病にでもなったら、裁判ではどんな結果がでるでしょうか?

大人社会では許されないことが、大人対子どもの関係では、許されてしまう。これこそ子どもの人権を軽視してきた大人が犯している、大きな過ちだと思うのです。

「その先生が悪いんだから、罰を与えよ」、とか、「自分の子は学校で楽しくやってるんだから、問題ない」とかいう次元のことではないでしょう?

こんな嫌な、悲しい出来事をなくすためには、私たち大人が、ほんとうに子どもの人権を尊重しているのか、今一度考えなければならないと思います。


そもそも、「先生」と呼ぶことが間違い、勘違い、の元だと思います。

事件のあった中学校の校長が全校集会で、「先生たちが手を抜いてしまった、乱暴な言葉や甘えがあった。ごめんなさい。君たちの誰かを傷つけていたかもしれない。今後は『先生、それは違うよ』と言ってほしい。」と呼びかけたそうですが、「先生」という称が既に権威をまとっていますから、教師の間違いを指摘することは、心理的に難しいのです。

それでなくても、体の大きな大人には威圧感を感じるわけですがら、そのうえ「先生」と呼ばせられたら、どんなに「先生になんでも言ってくれ」と言われたって、その心理的壁は、なかなか越えられないのです。


きのくにでは、教師のことを、名前やニックネームで呼びますが、そのことの、大きな意味が、今ではよく理解できます。

FやNがきのくにの小学校時代に、公立幼稚園から一年間の研修できのくににやってきた教師がいたのですが、そのかたの意見に納得できなくて、子どもたちが猛反発し、話し合いをした、という話しを聞いたことがあります。きのくにの子どもたちは、おかしいことはおかしい、と、相手が大人(先生)であっても、言えるように育っているのです。


偉そうに書いてしまった私ですが、私自身、まだまだ子どもの人権ということに関して、自分のものになっていないと感じるときがあります。もう大きくなった息子たちに、「かわいい!!」と言ってしまって、嫌な顔をされるのです。ペットみたいにかわいがる、子ども扱いする、というのも、人権侵害ですね。

私も体験学習で学んでいかなければ、と思っています。

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2006年10月15日 (日)

すごいことに気がついた!

ある日の夕食時、Fが、「Tちゃん(バイト先のオーナーの奥さん)、赤ちゃんができたらしい」と、話してくれました。

15才、高一、こういう話題、なんとなく恥ずかしい時期じゃないんかな、と思ったけど、本人いたって普通の様子。それで気がついたんですが、きのくに子どもの村学園のスタッフは、夫婦で勤務が、今現在、なんと8組!これってすごくないですか?

それで、「赤ちゃんができました〜」「生まれました!」というニュースはとても身近なんですね。

この8組のスタッフは、きのくにで知り合って結婚された方もいれば、別の職場だったけれど、一方がきのくにのほうへ転職した、というケースもあります。

いずれにしても、結婚、出産など、子どもたちみんなで、楽しくお祝いするようです。

Fが転入して半年後、用事できのくにに行ったとき、ちょうど中学校のプロジェクトでミュージカルの発表をしていたので、私も見学させてもらいました。

発表が終わってから、そのプロジェクトの生徒(中学生)が前にでてきて、「みなさ〜ん、○○ちゃん(担任)に赤ちゃんができました〜」とお知らせしました。○○ちゃんは両手を振って前にでてきて、子どもたちの「おめでとう」の声と拍手に応えていました。

そして、○○ちゃんは、近くにいた男性を手招きして、前に呼び、「ダーリンです」と、子どもたちにお連れ合いを紹介していました。

「すてきな光景だなあ」、と思いながら、その様子を見ていたことを思い出しました。そのとき「ダーリン」と紹介された男性は、今、きのくにのスタッフになっています。


女性スタッフは、出産後も安心して働けるように、きのくにの中に、保育所があります。なので、朝、子どもと一緒に家族で出勤することができるのです。

また、プロジェクトは基本的に男性教員、女性教員のペアで担当する場合が多く、それが夫婦というペアであるケースもあります。

子どもたちは、身近な大人が誰かを好きになって結婚し、赤ちゃんができて、一緒に働いて、っていう様子に、ごく自然に接することになるのです。いいですねえ、こういうの。


そういえば、私の学生時代は、夫婦で同じ小中学校の教員をしている、っていうの、見たことなかったし、Fも、地元の小学校に通っていたときのことを思い出し、「見たことなかったな」と言うのです。なんでなんでしょう?

会社でも、社内結婚したらどっちかが退職しないといけない、という暗黙の規則があるところがありますよね。【普通の】学校も、そういう規則があるのでしょうか?あるとすれば、その理由はなんなのでしょうか?すごく知りたいです。

『鮮明な旗印と民主主義』につけてくださった、のんびり母さんの二回目のコメントにありましたが、

【わたしはきのくにほど「普通の学校」はないと思います。教育というものが、ひとりひとりの子どもの個性と成長を当たり前のこととして見守り育んでいくものであるならば、きのくには、本来の意味において「普通の学校」じゃないのかな~なんてね。(^^ゞ】

ほんとに、本来あるべき【普通の学校】って、なんなのでしょうね?

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2006年10月13日 (金)

宗教みたい

アメリカペンシルバニア州にある、アーミッシュの村で、ある男性が、アーミッシュの学校に押し入り、5人の女児が撃たれて死亡したという事件、ご存知でしょうか?

アーミッシュというのは、宗教の一つで、文明の利器、現代的な暮らし、暴力を排し、死後の世界への強い信仰を持っているということです。

その後の報道で、殺された5人の中で最年長の女の子が、「私から撃ってください」と言ったというのです。また、容疑者は自殺してしまったのですが、その容疑者の家族はアーミッシュの一員ではないけれど、地域に住んでおり、事件後、アーミッシュの人たちは、この家族のもとを訪れて、許しを表明したということです。

信仰がなければ、なかなかこういう行動にはでられないのではないでしょうか。信仰を持つ人の強さを感じました。

この記事を見たその日(8日)、私は、あたかも「きのくには宗教〈なんかじゃ〉ありませんよ」というようなニュアンスで記事を書いてしまい、ずっと後味が悪かったです。


宗教のなかにも、すばらしいもの、偏狭で、ちょっとおかしいんじゃないか、と思うもの、いろいろあります。ちょうど昨日、日蓮宗のお坊さんから、法華経の話しを聞く機会があったのですが、とてもよいお話でした。

それを十把一絡げにして、「宗教なんかじゃありません」みたいに否定するのも、ほんとうによい宗教を信仰している人たちに、とても失礼だったな、と感じたのです。

きのくにを見たり、話しを聞いたりして、「宗教みたい」という方は(SUGIさん以外にも、言われたかたがあります)、たぶん、「盲信している」「凝り固まっている」という意味で使われるのだと思うのですが、私はきのくにを「盲信」しているのでなく、きのくにの「自己決定・個性化・体験学習」という方針が正しいことを、「確信」しているのです。その確信は、堀さんやスタッフとの会話、子どもの様子、書籍、講演会、他の保護者との会話、などを通した、根拠のある確信です。

「盲信」のように、わけもわからず信じ込むことではないのです。

なので、今後、もし誰かに「宗教みたい」と言われたら、「きのくに子どもの村学園は学校であって、宗教団体ではありませんよ」と、冷静に言うだけにしときましょ、と思っています。


ああ、なんだかまた、まじめに熱く書いてしまっています。明日からは、ちょっとゆるりといきましょ。(無理かしら?)


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2006年10月 9日 (月)

鮮明な旗印と民主主義

今日は、10月5日の記事、『読み書きそろばん、何のため?』にいただいた、nyanさんのご意見、ご質問について考えてみたいと思います。【】この括弧内が、nyanさんの書かれた部分です。


○【民主的なこと、個人を重んじること、違いをわかることと言いつつ、気に入らないならやめろ、というのは少々違うのではありませんか?】

「気に入らないならやめろ」って、私、どこかで書きましたっけ〜?今まであまりにもたくさん書き過ぎて、どこで書いたかみつけられませんでした。う〜ん、どこだろ。書いたとしたら、ちょっときつくて、嫌な気持ちにさせる書き方ですよね。自分のやったことには責任とりたいので、どこにその文があるか、誰か教えてください!!


○【わたしも子どもが在校時代、疑問点はいくらでもありましたが、それを口にして、じゃあやめれば?と言われたことはありません今のきのくには、学校もそのようなかんじなのでしょうか。。】

私も「じゃあやめれば」と言われたことはありません。(笑)気になったことは、堀さんやスタッフに直接聞いて、理解できたり、改善していただいたこともあります。なので、ご心配には及ばないと思います。(私の体験からしか話せませんが。)


○【いくら基本的な考えに賛同して入学したからといって、何もかも考えが同じというのはそれこそ変ではありませんか?言いたいことが言えるのが民主的なのではないのですか?】

私も同感です。そして、ここが大きなポイントだと思います。一人一人考えが違うのは当然なのですが、きのくに子どもの村学園の基本理念に賛同できない人、もしくは賛同しようという努力ができない人までが、満足いくようにすることは無理だろう、ということを、私は思っています。


『自由学校の子どもたち』の270ページに、堀さんがこう書かれています。

《旗印を鮮明にして、それに合意する人だけが、学校づくりの仲間として仕事を続けるのがよい。間違っても「みんなのいろいろな意見を公平に取り入れて学校を作ろう」などと考えてはならない。そんなことをすると、仲間の間で異論がでてきて、対立やいさかいが起きるからだ。

みんなのいろいろな意見を公平に取り入れるのは、民主的でも何でもない。学校づくりにおける民主主義には、みんなが公平に発言はするけれど、冷静で知的な合意に到達し、その合意は厳密に守られることが前提になっていなくてはいけない。》

これは学校づくりをする場合のことについて述べてありますが、保護者の気持ちとしても、そのような心づもりが大事であろうと思うのです。


『きのくに子どもの村』のほうには、このように書いてあります。(59ページ)

《きのくには、親のすべての要望にこたえることはできない。そんな力もない。また、私たちのやり方が完全無欠のものだとか、教育はすべてこうでなければならない、とかいうつもりもない。たとえていえば、きのくには、百貨店でもなければコンビニエンスストアでもない。

小さな専門店である。私たちの特製の商品が気に入ってくださる方はどうぞ、というのが基本姿勢である。

特製の商品とは、自己決定と個性と体験学習によって、感情的にも知的にも社会的にも自由な人間への成長のお手伝いをするということだ。

きのくにで、しつけをきびしくとか、基礎学習の時間をふやしてほしいなどという人があれば、それは八百屋へ来て洋服を注文するようなものだ。》

私は、きのくにがこういうふうに、旗印をはっきり掲げてくれているのから、安心していられるのです。


○【わたしは子どもをきのくにに通わせられる経済力をいつも感謝しておりました。来たければ来ればいいじゃない、というふうに、傲慢にならないでほしいと思います。保育園がきのくにより高かったという書き込みをされた方もいらっしゃいましたが、その方の経済力の自慢をされたところで、何も解決になりません。】

5月13日の『きのくにの学費は高いのか』と18日の『学費のことから考えた』の記事、およびコメントを読んで書かれたのだと思います。

経済力の自慢をしている、という感想を持たれるかたがあるとは、かなりびっくりしました。でも、百人百様の受け取りかたがありますものね。

ただ、nyanさんのコメントだけ読まれて、オリジナル記事、コメントを読まれていないかたが多いとすれば、気がかりですので、どうぞ、この機会に読んでください。その上で「自慢している」「傲慢」と受け取られることには、異議申しません。

私はコメントを読んだとき、夜中近くまでの保育時間を見て、このかたが、どれだけ必死に働いてきたかを想像し、ちょっと涙がでました。


私がこのブログをつくろうと思ったのは、ひらおだい四季の丘小学校の入学を祝う会に行ったときでした。代表のよしのさんのことは、堀さんに紹介され、数年前から知っていました。

「きのくにみたいな学校をつくりたい」と熱く語りつつも、なかなか大変そうで、時間を要している様子を感じていました。それでも、くじけず、情熱の火を消さずに頑張り通したのです。(酒断ちして?)

堀さんが、「教育の改革に一石を投じたい」と始めたきのくにの波が、確かに少し大きな波になって、九州の地に新たな自由学校ができたのです。ものすごくうれしかったと同時に、私も何か役にたてるようなことをしたいな、と思ったのです。

こんな私でも、きのくにで良かったことなんかを書いていったら、保護者の生の声、として役にたつかな、感動話、どんどん忘れていっちゃうのももったいないし、という気持ちなのです。

常々堀さんは、「きのくにはきのくにの子だけのものじゃない」とおっしゃいます。ほんとうにそう思います。そして、保護者の多くも、「私たちはきのくにこれてよかったよね〜。」なんていう、自己中心な気持ちでは、決してないと思います。


○【誰もパーフェクトじゃないし、いわゆる成功例だけをあげて、誰もがこうなる、といったような話はやめたいです。】

そういうふうに受け取られる可能性があるのか、ということがわかりました。ありがとうございます。気をつけつつ文章を書こうと思います。

ところで、成功例、というからには、失敗例、もある、との認識なのでしょうか?そのほうがよほど子どもに失礼なような気がしますが・・・。

私は、子どものすてきなところがいっぱいいっぱい目に入ってきて、ほんとうに幸せです。それは子どもが変わった、(確かに変わった部分はあるでしょうが)、それより、私の価値観が変わったので、息子本来の良さが伸びて、よく見えるようになったということなのです。

「失敗例」というようなものが、もしあるとすれば、それは、その親御さんがご自分の価値観を転換することに失敗した、ということではないかと思います。


10月3日の『柔らかいアタマ』につけてくださった、piririさんのコメントが、私の言いたい事を代弁してくれているので、それを転載させていただきます。

《うちの息子たちの場合は、たまたま二人とも中学になってから、今までつけていた力を私が感じ取れるようになりました。
私にしたら、突如とした変化に見えたのですが、彼らの頭と体のなかに蓄えられていた力を私がやっと感じることができたのかもしれません。》


○【きのくにが、すごくエキセントリックな学校だと思われるといやだなと思って書きました。】

その思いがすごくうれしかったです。nyanさんとは、考え方の違いを感じましたが、〈きのくにを愛する〉という気持ちが通じているような気がしました。


長くなってしまいました。ここまで読んでくださったみなさま、ほんとうにありがとうございました。おつかれさまです。2、3日更新お休みしようかな、と、〈今は〉思っています。(笑)

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2006年10月 8日 (日)

主にSUGIさんのコメントに関して

本日は10月6日に「読み書きそろばん、何のため?」にいただいた、SUGIさんのコメントの中から、考えたことを書こうと思います。

○【きのくに保護者の方には「公立」はよほどひどい所と映るようですが】

私の息子はたまたま数年間、地元の小学校に行きました。それが公立小学校でしたので、そのときの事例を書くときに、「地元の公立小では」というふうに書いてきました。私の気持ちは、別に私立小学校であっても、受験学力をつけることが目的の学校であれば、それは、子どものためにはならない教育、という意味で同じことなんです。

なので、「公立小」という枠で考えているわけではありません。堀さんも、『自由学校の設計』の中で、「今日の学校では、公立であれ私立であれ、主人公は子どもではない。」と書いておられます。

もし、「地元の公立小では」の部分でかカチンとこられたとしたら、私の配慮がたりませんでしたことをお詫びします。そして、今後は、特に私立、公立をはっきりさせる必要のないときは、「地元の小学校では」というふうに書くようにします。


○【きのくにでは君が代を歌う自由がないのでは?】

この問いかけで、考えてみました。

卒業を祝う会では、子どもたちが「祝う会委員」をつくって、その子たちが、段取りをし(もちろん例年通りの部分もあるとは思いますが)、司会をし、祝う会で歌う歌を決めたりします。毎年、全員で歌を歌うんですよ。

今年は『チェリー』という歌でした。こんな歌詞です。って全部書こうとしたんですが、これ、完璧、著作権にひっかかりますよね。なので、ちょこっとだけ。(ちょこっともダメなんかなあ。)

【きっと想像した以上にさわがしい未来が僕を待ってる。〜〜いつかまたこの場所で君とめぐり会いたい】

私、じ〜んときて、歌いながら泣いちゃいました。(君が代では泣けません!)

それで、ここから先はあくまで私の想像ですが、祝う会委員の子のなかで、誰かが「今年は君が代にしたい」と言ったらどうなるか・・・。

多分、みんなで話し合うんだと思います。その子がほんとうに、ほんとうに、強い動機があって、「君が代」を歌いたければ、賛同を得られるように自分の思いを伝えるだろうし、賛成できない子は、その理由を話すんだろうな。そんなふうに思いました。


SUGIさんのお子さんの学校では、着席していられる自由があったとのこと、それはすばらしいことですね。今後、教育基本法の改正がされ、教育委員会の通達が実行力を持ち、罰則規定が生じないことを祈っています。

私自身は、まだ不勉強なため、「君が代」が絶対悪いとも絶対良い、とも言えないのですが、強制し、それに従わなかったら罰を与えられる、というのが、おかしいと思うのです。


○【少し宗教に似た印象を持ちました。】

あらまあ、そうでしたか。なんせ、私、つい熱く語りすぎてしまうほうでして。ちゅりぼうさん、ぴいぶさんも、熱いタイプのようです。でもね、熱烈に愛し、信頼できるところじゃなければ、最愛の息子と離れて生活してまできのくにを選んだりはしないです。おまけに大枚はたいて!

まあ、その後、nyanさんとおっしゃる、卒業生の保護者のかたも登場してくださいましたので、いろんな考え方の保護者がいるんだな、ということが少しはわかっていただけたのではないでしょうか。

nyanさん、登場してくださって、ありがとうございました。


きのくにのスタッフになるための資格要件の一つに、【理想が高くないこと、理想がかたくないこと】というのがあります。理想が高く、こだわりが強いと、それを子どもに押し付けてしまいがちだからだそうです。堀さんは、「理想は子ども自身が持てばいいこと」と言います。

そして、私が、「きのくにのスタッフになりたいなあ」と言ったとき、Nはこう言いました。

「お母さんは無理やって」   トホホ・・・ でも、我が息子、よくわかってるわ。

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2006年10月 6日 (金)

お願い

いつも、当ブログを読んでいただき、ありがとうございます。

どのような流れでこちらにいらしたか、どのようなバックグラウンドをお持ちのかたがたか、わかりようもないわけですが、読んでいただいているみなさまに、お願いしておきたいことがあります。


まず、このブログはきのくに子どもの村学園を愛する、一保護者のブログです。当然のことながら、私の意見がすべてを代表するものではありません。そのつもりで読んでいただけるとありがたいです。

真にきのくに子どもの村学園のこと、自由教育のことを知りたいと思われるかたは、最初に学園長の著書をお読みいただいたほうがよいと思います。そうしていただくためにも、常々著書からの引用をしています。

学園長の著書を読まずに、一保護者の書いたブログだけでは、真の理解は無理だと思います。ましてや【通りがかり】にこのブログを読まれたかたには、なんのことがさっぱり意味がわからない、ということになるのではないか、と思います。


次に、コメントを寄せていただくみなさまへ。

大変励みになり、また、勉強になります。ありがとうございます。

そして、コメントの意見は、そのコメントを書いた人のものであって、私の考えと異なる部分も、当然あります。読まれる方も、反論などある場合は、そこらへんをごっちゃにしないで、誰のコメントの、どの部分に対してこう思う、という具合に、明確に書いていただきたいと思います。


また、本日のコメントでnyanさんから、以前の記事に関してもいろいろ意見をいただきましたが、できましたら、該当記事への直接コメントでお願いいたします。もしくは、お手数ですが、「何月何日の○○という記事について」、というふうに、他の方(私を含めて)がオリジナル記事をすぐ参照することができるよう、ご配慮願います。


例えば、以下のような表現がありましたが、

【民主的なこと、個人を重んじること、違いをわかることと言いつつ、気に入らないならやめろ、というのは少々違うのではありませんか?

保育園がきのくにより高かったという書き込みをされた方もいらっしゃいましたが、その方の経済力の自慢をされたところで、何も解決になりません。】

書いた人のオリジナルの文章の引用でないと、微妙にnyanさんの翻訳、解釈が入ってしまうので、書いた人が本当に言いたかったことからずれてしまう危険性があります。


また、SUGIさんのコメントの中にこう書かれてありました。

【ただ、コメントを募っておきながら、違う考え方を徹底的に否定するというやり方に少し憤りを感じましたので。】

コメントを募ったのは私ですが、違う考えを否定していません。そして、それまでの他のかたのコメントでも、「否定している」というふうには感じませんでした。各々の方の考えた事を書き、その考えが全く違う、価値観が違う、というのはあって当然だと思います。それが、否定した、ということになるのですか?

他にも、「否定された」と感じたかたがありましたら、どの部分でそう感じられたか教えてください。私、けっこう鈍感なので、教えていただければ、理解できるかもしれません。


コメント欄はご自由に書いていただいてかまわないし、私は大歓迎なのですが、あまりきつい調子にならないよう気をつけていただければと思います。(って、私が一番きつい??)


nyanさんご指摘の息子のプライバシーの件は、ちょうど家族で話題になってたことなんです。ご心配いただき、ありがとうございます。

もちろん、「これヤバいかな」っていうような話題は、まず当人に、「これ書いてもいい?」って聞いて、「だめ」って言われたら涙をのんで我慢してます。でも最近、それだけじゃダメで、息子に関する記事の場合、全てを検閲する、ということになりました!

それで、nyanさんがそのことを書かれた部分ですが、私にはかなりきつく感じました。何か、怒っているように感じました。私が逆の立場であのご意見を書くとしたら、

【息子さんのことをけっこう書かれていますが、事前承諾されているのですか?そうじゃないとしたら、心配です。大丈夫?私は息子のプライバシーに関わることは、何も書かないように気をつけているんですよ。】

くらいです。どうでしょうか?


以上、いろいろ書きましたが、このところの、熱いやり取り、実は楽しんでます。読んでくださるかた、参加してくださるかたのおかげです。今後も、何か、気になることがありましたら、「いろんな意見があるんだな」と知っていただく良いチャンスになりますので、ぜひご意見お願いいたします。

たくさんありましたコメントに対する私の意見は、またぼちぼち書かせていただきたいと思います。

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2006年10月 5日 (木)

読み書きそろばん、何のため?

3日の記事『柔らかいアタマ』へいただいた、kitaguchi様のご質問について、考えてみました。

今日は

【九九は実生活に必要ない、でしょうか?その点に関しては少し疑問です。
生きていく力、という点では、九九ができない、ある程度の漢字が書けなくては(また読めなくては)コンビニで働くことも苦労するのではないでしょうか。】

という点に関して、私の考えを書きます。

まず、私が書いたのは、「九九が必要ない」ではなくて、「九九が【言える】必要はない」ということです。

つまり、オウムみたいに、「ににんがし、にさんがろく・・・」と【言える】ことが重要ではない、ということが言いたかったのです。わかりにくい書き方で、すみません。


実際、きのくに子どもの村学園では、カリキュラムのなかに、ちゃんと「基礎学習」の時間があり、そこでは、数やことばについて学びます。

「基礎学習」に関しては、堀さんの著書、『きのくに子どもの村ー私たちの学校づくり』(ブロンズ新社)のp80~83をご参照ください。この本が書かれてから、数年たっていますので、今現在、さらに進化しているかもしれませんが、基本的には、こんなところだろうと思います。

担任手作りのプリントが使われたりもします。その場合も、プロジェクトで取り組んでいる事柄や、自分たちの身の回りのことを、数えたり、計算したり、読んだり、調べたり、漢字を書いたり、というふうにしています。

算数、国語の知識は、必要ですが、あくまでも、より楽しく生きるための道具であって、それをいかに使いこなすか、ということが大事なんだと思うのです。四字熟語、漢字は知っていても、人とうまくコミュニケーションとれないというような、不自由な物知りを育てる教育とは、まったく別物、ということです。

大変共感している堀さんの文章、引用します。

【もし計算の正確さと迅速さが算数の基礎学力だなどというなら、算数の魅力が台無しにされてしまうだろう。計算よりもっと基礎的なのは、数を使って考える態度と能力である。現代の子どもたちは、機械的なドリルや自分にとって何のかかわりもない応用問題を押し付けられ、数や形を使う喜びも数学の世界の美しさも奪われてしまっている。

国語も同じだ。必要以上に多くの漢字や熟語を、しかも異常なまでに正確に紙の上に再現するように強いられている。あるいは他人の文章をその著者の意図通りに読み取ることを求められている。漢字や熟語の暗記、あるいは名作の鑑賞よりも、もっと大事にしないといけないのは、ことば(文字とはかぎらない)を使って表現したり交流したりする喜びではないだろうか。】

『自由学校の設計』 堀真一郎著 黎明書房 p89より

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2006年10月 3日 (火)

柔らかいアタマ

きのくにで、「自分のことは自分でやり、体を動かして学び、自分で工夫しチャレンジできて、友達と力を合わせて何かをつくりあげ、失敗を責められず、人と比べられない、そして大いに笑う」、そんな生活を送ると、ほんとに、ほれぼれするほどすてきな人に育ちます。自立していて、穏やかで、自分も人も認められる、そんな人間に成長します。

私は、それだけでもう十分だと思うのですけれど、「いい子に育つのはわかったけど、学校の勉強はどうなの?受験でやっていけるの?」っていう人が、必ずいるんですよねえ。やれやれ。

きのくにの保護者であっても、「うちの子はまだ九九が言えない」と、焦ってる人がいるという話しも聞いたことがあります。(なんで子どもをきのくにに入れたんだろ。)

「九九が言える」って、そんなに重要なことなんですかねえ。

そういえば、うちの息子たちが、九九を言えるかどうかなんて、考えたこともありませんでした。(Fは言えるのだろうか・・・?)

でも、小さい子でもイギリス行ったときには、向こうのお金で買い物して、友達と割り勘でおやつ買ったり、おつりもらったりできてるし、それで何の問題もないでしょう?


Nが小学生のとき、134円のを5個買ったらいくらだっけ、という話しになったことがありました。一緒に買い物に行って、お財布の中身が乏しかったので、お金が足りなくならないように考えなくてはならなかったのです。(ひえ〜、貧乏!)

で、私は計算がものすごく苦手です。ぼ〜っと、考えていると、Nが「670円かな」と言ったのです。

私:「ええ〜、早い!多分それで合ってるよ。(多分、というのが情けないが)どうやって計算したの〜?」

N:「ええとな、まず100が5つだから500やろ、それで、30が5つで150で、それで650。で、4かける5が20やけん、それたして、670かな、と思って。」

私はいきなり134×5をしようとして、頭ごちゃごちゃになっちゃうんですが、Nの柔軟な考え方に、ほえ〜、すごい!と脱帽でした。

こういう考えがすんなりできるのは、普段、プロジェクトで活動するなかで、いろいろと問題にぶつかり、そのたびに、「じゃあどうしたらいいんだ?」というのを、自分の頭で考える習慣がついているからだと思います。

Nが九九を全部言えるかどうか、わかりませんよ。でも、私はそれが、実生活上、必要なことだとは思っていないので、気にもなりません。そんなことより、柔軟に、いろんな方法で考えてみる、という態度が備わっていることこそが、生きていくうえで大切なことではないでしょうか。

(「受験」に関しては、8月10日『受験て何よ』の記事に書いた通りです。)

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2006年10月 1日 (日)

ゆっくり休めてよかったね

今日は日曜日。夫は用事で一日外出。Fは朝からバイト。仕事は3時頃終わるのですが、バイト先のオーナーの奥さんがピアノ科卒業なので、仕事後、ピアノのレッスンをしてくれるのです。それで帰宅は5時半頃。

私は昨夜から頭ががんがんして、今日は、食料品を買いに行った以外は、寝ていました。驚くほどよく眠れるのです。

夕食はなんとかつくりまして、三人の食卓。

「私、今日は一日寝ちゃったよ。な〜んにもしてない。あ〜あ。」と言った私に、Fがひとこと。

「ゆっくり休めたから、よかったやん。」

じ〜ん。こういう考えが、ごく自然にできるんですよね。息子に勇気づけられる毎日です。

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