« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »

2006年9月29日 (金)

ピンチはチャンス

一昨日より、右手人差し指の先が痛い、と言い出したF。見ると、爪と指のお肉(?)の間からばい菌が入って、赤く腫れ始めています。抗生剤を飲み、指を濡らさないよう気をつけるように言いました。

2日後の今日はギターのレッスンがあるので、練習もしなくちゃいけない、でも指が痛い。F、焦るだろうなあ、と思っていたら・・・。

「今日はこの練習しよう」と言って、中指と薬指と小指だけの基礎練習を始めました。

「先生が、この指は動きにくいから、こういう練習が必要って言ってたんや。この練習するのに、ちょうどいいチャンスやな。」と言うのです。ごく自然に。

あっぱれ、です。

このピンチをチャンスにかえる、っていう発想、きのくにの大人の行動を見て、子どもたちも自然に身に付いてるんだな、と感じました。

以前書いた、Nのパスポート盗難事件の時も、大人は「困った顔」はしたけれど、子どもたちを怒鳴ったり、ぐちぐち文句を言ったりせず、「こういうときこそ、焦らず落ち着いて行動しよう」と話してくれたそうです。

何年か前、沖縄修学旅行のときは、予定していた博物館に行ったら、その日は休館日で、どうしよう、となったけれど、さっと頭を切り替えて、別のコースを考え直し、無駄なく楽しい旅行が続けられたそうです。


で、幸せな人生を生きるためには、「九九が言えるとか」「難しい漢字が書ける」とか、そんなこと、ぜ〜んぜん関係ないです。それより、困難にぶつかっても、「チャンスやな」と思えることのほうが、よっぽど大切ではないでしょうか?やっぱりきのくにのおかげやな、とつくづく思う私です。

親ばか、きのくにばか、でしょうか・・・?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月27日 (水)

きのくにではどうしてる?

先日のコメントで、「きのくにでは、学習指導要領とか、国旗掲揚、国歌斉唱はどうなっているの?」という質問をいただきました。私の知っている範囲で書いてみます。

ただ、デリケートな問題なので、下手なこと書いてきのくにに迷惑がかかってもいけないので、気をつけて書きます。きのくに保護者、OBのかたで、フォローしてくださる点がありましたら、コメント、よろしくお願いいたします。

以前堀さんに聞いたことでは、一応、学習指導要領は押さえているけど、フレキシブルにやっている、とのことでした。例えば、指導要領では【〈大〉という漢字は小学一年生で教えること。〈犬〉という漢字は小学二年生で教えること」ということになっていた場合でも、(この例は実際のものではありません。例えです。)、きのくには市販のプリントは使わず、日常の必要やタイミングに応じて学ぶので、指導要領と前後して学ぶこともある、ということです。

君が代、国旗掲揚は、私の知る限りでは、学内一斉に行うことはしていません。これは、それがきのくにの思想だから、ということもあるかもしれないけど、私立学校だから、教育委員会の通達も影響力がないということなのかな、と、私は解釈しています。

それと、君が代、国旗掲揚は、入学式や卒業式などの〈式典〉のときにするものなので、そういう〈式典〉のないきのくにでは、君が代斉唱も、国旗掲揚もする必要がないのでは?あくまでも〈入学を祝う会〉〈卒業を祝う会〉ですから。

ひらおだい四季の丘小学校でも〈式典〉はなさそうだから、国旗掲揚、国歌斉唱もない、ですよね?

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年9月25日 (月)

息子にたしなめられた

昨日のギターのコンサートのこと、今日も私がちょろっと悪口言ったら、Fに、「でも、そういう演奏が好きな人もいるやろ」と、静かにさらっと、言われました。

ほんとに、どっちが大人なんだかわかりませ〜ん。

私は好き嫌いがはっきりしていて、思ったこと、すぐばんばん口に出しちゃうほうです。なので、味方も多いが敵も多い!です。
でもって、「嫌いなものは受けつけない!」「全部嫌い!」とエスカレートしてしまいます。私と対照的なFを見て、そういうのが私の良くないところだよなあ、とつくづく思いましたです。

昨日のコンサートに関して言えば、Fも私と同様の感想を持つことは持ったようですが、それでも批判だけするのでなく、「あの曲の、この部分の指使いがすごかったな」「人間的によさそうな人やったよ」と、その人の良いところも、ごく自然に口にするんですよね。

きのくにで、Fのよいところもそうでないところも、深く受け止めてもらえてきた、そういう環境だったことが、今の、彼の懐の深さをつくっているような気がします。

私、きのくに信奉者ですので、なんでも「きのくにのおかげ」と思いがちかもしれませんが、やっぱり、きのくにのスタッフと話しをしていると、暖かくて、そう思わざるを得ないんです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月24日 (日)

音楽と超絶技巧と感動と

今日、クラッシックギターのソロコンサートを聞きに行きました。

一言、「疲れた」

なぜって、う〜ん、ド素人の私の率直な感想ですが、早弾きテク満載の、「どうだ!見よ、この超絶技巧を!」と言ってるみたいな演奏に感じたんです。

そのかたは、有名なコンクールで最年少一位になったことがあり、留学もしていますから、文句なく「うまい」んでしょうけれど、感動がなかった・・・。

ギター教室を主催するお父さんに、小さい頃から指導を受けたとのことですが、思うに、人より上手に弾くということに力点を置いた指導をされていたのではないかな。音楽(だけでなく、芸術全般)は、あまり我が強すぎると感動を生む演奏はできないんじゃないだろうか、と思った次第です。

もちろん、誰しも人よりうまくなりたい、という気持ちはあるでしょう。でも、それ以上に、人に喜んでもらいたい、幸せな気持ちになってほしい、この音楽が好き、そういう気持ちがないと、感動を与えることはできないですよね。

Fに、「どんなギタリストになりたいの?」と聞いたとき、「人に感動してもらえるような演奏のできるギタリストになりたい」と言っていました。その心を忘れずにいてほしいな、と思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月22日 (金)

国旗、国歌 強要は違憲

やったね、21日の判決!

国旗への起立、国歌斉唱の強要は不当だとして、東京都の教職員が起こしていた東京地裁の裁判で、原告の教職員が勝訴しました。東京地裁は、違反者を処分するとした東京都の通達や職務命令は「少数者の思想・良心の自由を侵害する」として違憲・違法と判断し、起立、斉唱義務がないと述べました。そして401人の原告全員に一人三万円の慰謝料を支払うように命じました。

勇気ある原告401名のみなさま、ほんとうにおめでとうございます。そしてお疲れさまでした。(都は早速控訴するようですが。)

原告も被告もどちらも大変驚いた判決結果だったようですね。でも、普通の感覚だったら、「勝訴してあたりまえ」と思いませんか?原告の一人がおっしゃっていましたが、「日の丸・君が代そのものに反対しているわけではなく、強制するのがおかしい」というのは、ほんとに、当然のことですよね。

都教委の教育長は「学習指導要領に反する姿勢を生徒に見せることが教育なのか」(朝日新聞22日付け朝刊35面)と言ったそうですが、それじゃあ、教師が自分の考えを発言する自由もなく、上から押さえつけられて、びくびくして過ごす姿を生徒に見せることが教育なんでしょうか?

今回、新聞に載っていた都教委の通達(骨子)なるものを初めて読みましたが、あきれるくらい高圧的なものです。こういう通達を出すこと自体が、おかしいですよ。

ほんの一部転載します。
【国旗掲揚について
式典会場の舞台壇上正面に掲揚する。都旗も併せて掲揚する。国旗は壇上正面に向かって左、都旗は右に掲揚する。屋外での国旗の掲揚は来校者が十分認識できる場所に。

国歌斉唱について
式次第に「国歌斉唱」と記載する。司会者が「国歌斉唱」と発声し、起立を促す。教職員は国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する。斉唱はピアノ伴奏等により行う。教職員の服装は式典にふさわしいものとする。】


対して、判決理由要旨は、大変すばらしく、血の通った人間の文章、という感じが致します。

すばらしいので全て書きたいくらいですが、長くなりすぎるのでこちらもほんの一部です。

【都教委の通達は、国旗掲揚、国歌斉唱の具体的方法などについて詳細に指示するもので、各学校の裁量を認める余地はほとんどない。教育の自主性を侵害するうえ、教職員に対し一方的な一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制することに等しく、教育基本法10条1項の「不当な支配」にあたり違法と解するのが相当。

入学式、卒業式で国旗を揚げ、国歌を斉唱することは有意義ということができる。しかし、宗教上の信仰に準ずる世界観、主義、主張にもとづいて、起立、斉唱、伴奏をしたくない教職員がいることもまた事実である。

このような教職員に対し、懲戒処分をしてまで起立させ、斉唱などさせることは、いわば、少数者の思想・良心の自由を侵害し、行き過ぎた措置だ。】

どう考えても、これがまともな思想だと思うのですが、今回の勝訴が両者とも驚きだったということに、一抹の不安を覚えます。

このところじっくり新聞を読むFが、「これ(判決)よかったな。でも、地裁なんやろ。まだ、高裁、最高裁までせんといけんのやろうな。」と言っていました。

思わず、「あんた地裁とか、高裁とか、そんな裁判のシステム知ってるん!?」と言ってしまいました。

きのくにで、いろいろ社会問題を学びましたし、裁判所見学もしたそうなので、そのあたり私よりよく知っているかもしれません。自民党総裁選に関しても、家族でいろいろ話しをしたりしました。話していて、管理教育で育つと人を支配、管理したい大人が育つ、自由教育で育つと、他者を尊重する大人に育つ、ということを実感しました。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2006年9月21日 (木)

バーンロムサイ

昨日紹介した本について、補足です。

名取美和さんが代表をつとめる、タイのエイズ孤児の家は、バーンロムサイといいます。「ガジュマルの木の下の家」という意味だそうです。

ホームページアドレスは
http://www.banromsai.jp
です。

活動の様子、写真などが載っています。ご興味のあるかたはご覧ください。少しですけど、リネンの商品もネット販売しています。もっといろいろ種類があって、すてきな手提げなどもあるのですが、それはネットでは販売していないようです。

「バーンロムサイの活動へご支援いただくには、3つの方法があります」とパンフレットに書いてあります。
1.賛助会員になる(年会費一万円)
2.寄付
3.ホームで作っている製品をご購入いただく

本を読んだときは、「子どもが巣立って、医院も閉めたら、こういうホームで働きたい!」と、極端なことを思ってしまったのですが、〈いつになるかわからない 〉大きなことをしようと思うより、こういう小さいことでも、〈今できること〉からやっていくほうが現実的だな、とちょっと落ち着いた今、そう考えています。

そして、支援うんぬんの前に、本の中の美和さんや子どもたちの笑顔を見ると、なんだかとても心暖かくなり、こちらが元気づけられるのです。

ああ、私の知らない世界が、まだまだい〜〜〜っぱいあるんだなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月20日 (水)

ガジュマルの木の下で

『ガジュマルの木の下でー26人の子どもとミワ母さんー』
名取美和:文  奥野安彦:写真  岩波書店 

先日友人に勧められて、この本を読みました。

名取美和さんは、デザインの仕事をしていたのですが、オリジナルのクッションカバーやベッドカバーの素材を探すために、1997年、初めてチェンマイを訪れます。そのとき、HIV感染症患者の家を訪問する機会があり、やせ細って息も絶え絶えの母親のそばで、心配そうにしている幼い子どもたちを見ます。父親はHIV感染症ですでに亡くなっています。

その子どもたちを見て、名取さんは、「この子たちはこれからどうなるのだろう。私は恵まれた環境で自由気ままに生きてきたけど、子どもたちのために何かお手伝いしてみたい」と、漠然とそう思いました。

それからしばらくして、「ジョルジオ アルマーニ ジャパン株式会社」が資金援助して、HIV感染症で両親を亡くした子どもたちの施設を開設することになり、名取さんがその施設の代表を引き受けることになったのです。

現在(2002年11月の初版時点)26人の子どもたちがホームで暮らしていて、保育士、事務スタッフ、ボランティアの人たちが働いています。子どもたちはみな、HIVに母子感染しています。そのため、ホームで亡くなった子どもたちもいます。

そんな過酷な状況でありながら、名取さんや子どもたち、スタッフの笑顔がすばらしいのです。〈岩波フォト絵本〉というカテゴリーなので、写真が豊富に載せてあります。遊ぶ、食べる、絵を描く、けんかする、どれもエネルギッシュで、かわいい子どもたちの様子を見ることができます。

そして、名取さんがほんとうのお母さんのように、真剣に子どもたちに向き合い、「あなたを大切に思っているのよ」というメッセージを送り、落ち込んだ子どもたちが再生していく様子が書かれていて、じーんとします。

名取さんは1946年生まれですから、もう60才になるのです。それなのに、この生き生きした様子!暖かい笑顔!憧れます。私はまだ、自分のこと、家族のことを中心にして生きています。ぼーっとしてたら、このままのんびり人生送ってしまいそうです。こんなんでいいのかな、と、この本を読んで、考えてしまいました。

50才以降の自分の人生、どうするか、今、考え中です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月18日 (月)

『責任』は、とらされるもの?

「あなたがやるって言ったんだから、ちゃんと自分で責任とりなさいよ」
先生や親から、こんなふうに言われた経験、ほとんどの人があるんではないでしょうか?

な〜んか嫌な言い方だなあ、と思います。だって、ほとんど脅しですもの。そして、こういうこと言う大人自体が、何かあると責任逃れすることばっかり考えてるみたいです。先日書いた修学旅行中止の件、然り。


Fが地元公立小で三年生のとき、担任の暴力が発覚し、クラスの中で問題になったことがありました。一番ひどい体罰を受けた子があるとき学校から逃げ出して、一時行方不明になったので、明るみにでたことでした。

私はいまどき体罰が堂々と行われていたことに驚き、また、「校長が“その子と担任との問題”にしてしまおうとしている」、というのを、その子の親御さんに聞いて、とても腹がたちました。

それで、校長に、こう言いました。

「今回たまたま問題が表面に出ましたが、これは学校全体の問題として、親も教師も考えなければならないと思います。自分の子どもを殴ってもいいと思ってる親もいるようですし、体罰する先生は、他にもいると思います。担任を指導して終わり、ではなくて、みんなで考えませんか?PTA総会で意見をだそうと思いますが、どうでしょうか。」

それに対する校長の答えは、
「それだけは勘弁してください。ことが大きくなると、またいろいろと面倒ですから・・・・、うんぬんかんぬん」

この人、自分の保身しか考えてないんだ、ということが、よ〜くわかって、もう、げんなりしちゃいました。校長にとって、責任をとるということは、教育委員会に知られて減給処分になる、ってことなんだろうな。つまり、体罰事件が公になったら、「責任をとらされる」っていう認識なのでしょう。

でも、「責任をとる」って、そういうことじゃないでしょう?もっと積極的で、問題を価値に変える力をもったものじゃないでしょうか?

この場合だったら、「私の意識が低かったから、こういう問題が起こった。繰り返さないために、何が必要だろうか。まず教員と話し合ってみようか。子どもの人権意識が低かったのだろうか。」などなど、積極的に考え、行動してみることが責任をとる、ということじゃないでしょうか?

脅しや管理の教育を受けてくると、「責任」というのが、とても嫌なものになるのです。「自由には責任が伴うんだよ」なんて、わかったようなことを言って、子どもの自発性を奪う教育のたまものなのだと思います。そして、自己中心で自己保身ばかり考える大人ができあがってしまうのですね。


 『自由学校の設計』 P.121より

【「自由には責任がともなう」。これまでにどれほど多くの子どもがこのことばを聞いて萎縮したことだろう。
「自由にしていいいよ。だけど責任は自分で取るんだよ。」
こんなふうに親や教師からいわれたら、子どもたちは、はたして自由の喜びを感じるだろうか。かえって結果に対する叱責や厳しい評価を予想してしまうのではないだろうか。

あえていえば、「自由には責任がともなう」ということばは、自発性を育てるどころか、むしろ脅しになっているのだ。この事実は、たいていの親や教師にとって、心理的に乗り越えにくい「躓きの石」となっている。

「子どもを自由にするのは大事だ、しかし、そこには責任が・・・」といいたくなる人は、早めに自由な学校に憧れるのはあきらめたほうがよい。】  (続きは本でお読みください。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月15日 (金)

責任のとりかた

毎週一回、フランス語を習いに行っているのですが、そのときの話しです。先生には高校生になる息子さんがいて、その子の学校では、9月に修学旅行でロンドンに行く予定をしていたのですが、このところのテロ騒ぎのため、学校側が中止と決めたそうです。

「テロの影響があるからこそ、警備が厳しくなって、今、一番安全な時期なのに、なんで中止にする?息子はすごく残念がっていたよ。日本の学校は、何かあるとすぐ中止するでしょ。決行して、なにかあったとき、学校の責任だ、どうしてくれる、って責められるのがいやなんだろうね。」

そうそう。どうやったら実行できるか、っていうより、どうやったら周りから責められないか、っていうことを大事にしているんですよね。

この話しを聞いて、あらためてきのくにがすごい学校だということに気がつきました。

昨年のロンドン同時テロの時は、ちょうどNたちがスコットランド滞在中で、帰国寸前の頃の事件でした。高専生(きのくに国際高等専修学校)は、入れ違いに研修旅行でスコットランドへ。まあ、このときはどちらもすでに出発していたわけなので、どうしようもなかったのですが、その後も、ロンドン滞在は避けるなど、多少の変更をして、できるだけ危険を回避したうえで、イギリス滞在プランは実行されています。

中止するのは簡単ですが、子どもたちの様々な体験と成長の機会も奪ってしまうことになります。実行するほうが、よほど勇気がいるし、重い責任が生まれます。それでも大切な機会を子どもに与えてくれるために、できるだけのことをしてくれるきのくに学園長とスタッフこそ、ほんとうの責任のとりかたを知っている大人だと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月13日 (水)

自己主張&人の話しを聞く

ある卒業生の女の子(そのとき大学生)が、こんな話しをしてくれたことがあります。

「きのくにでのミーティングが終わってから、堀さんに、“ちょっと自分の意見ばかり言い過ぎるんじゃない?”って言われたことがあるんです。そのときはショックでしたけど、ああ、そうだな、と思って、それから人の話しもよく聞くようになりました。」

きのくには民主主義を重んじる学校です。人の言いなりになるのでなく、きちんと自己主張できることが大切です。Fもきのくにに入って何が変わったか、という問いに対して、「自分の意見が言えるようになった」と言っています。(4月25日の記事『ミーティング』をご覧ください。)

そして、自己主張と同じくらい大切なのが、相手の話しをよく聞いて、互いのニーズを知り合い、楽しいことはより楽しく、嫌なことはより少なくしていくことなのです。

たくさんのミーティングを経験して、人の意見を聞いたり、相手の気持ちになったり、そして、自分の意見もきちんと言えるようになるのですね。きのくにの大人は、子どもにジャストタイミングでアドバイスしてくれるし。

別のある女の子は、「○○ちゃんと△△ちゃん(どちらも教師)に、“最近小さい子に対して、言い方がきついみたいだよ。”と言われた。二人に言われたときは恐かったけど、よく考えたら自分にきつく言われた小さい子も、恐かっただろうなと思った。」ということを作文に書いていました。

私たちもそうだけれど、今の子どもたちも、こういう人との関わりの中での経験が、とても不足しているような気がします。そして、人との関わりこそが、生きていくうえで、とても大切なことなのに。読み書き、計算なんかより、ずっと。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月11日 (月)

民主主義は常に育てていくもの

9月9日の朝日新聞朝刊の記事(8面)より:ノーマン・メイラー(米国の作家 83才)へのインタビュー

「米国の民主主義はどうなりますか。」という質問に答えて。

【私は、民主主義とは大きな賭けであり、非常に珍しい政治体制だと考えている。人間は子供の時から命令されるのに慣れていて、ファシズムの環境の方がむしろ自然なのです。

次の世代のために、毎日の小さな変化を積み重ねていくのが民主主義のやり方だ。その退屈さに耐えるには、判断力と意識をもった人々がいることが前提になる。民主主義は常に育てていくものであり、再生させていかなければならないのだ。】


「さっさと片付けなさい」「お友達と仲良くしなさい」「おしゃべりするな」「前向け」・・・こんな命令口調ばっかりの学校には嫌悪感を抱く。自分たちがどんな人間を生産(?)しているのか気付かない鈍感さに、不安を感じる。

そして、そんな教育を受けてきた私は、民主主義の大切さもやりかたも、まだまだわかっていないのかもしれない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年9月 9日 (土)

人の失敗に寛大な子どもたち

あれは昨年11月のこと。息子たちが帰宅していたので、靴と服を買い足そうと、うちから車で約1時間のショッピングセンターへ行きました。ちょっと遠いのだけれど、そこにはABCマート(靴が安いの)とGAPのお店が入っているので、まとめて買いたいものがあるときは、ここへ行きます。

その日はやたら駐車場が混んでいて、ちょっと離れた特設駐車場まで案内されました。「なんで今日はこんなに車多いんだろ」と思いながら、車を止めて、買い物を済ませました。

夕方4時、来たときとは比べ物にならないくらいの車の数。「なんで・・・?あ〜、今日は大分トリニータと鹿島アントラーズのサッカーの試合の日だ!」

このショッピングセンターは、サッカー場に隣接しているのです。ちょうど試合終了時間とぶつかってしまったようです。駐車場から出るだけで、30分もかかってしまいました。待つことが大嫌いな私、息子たちが後ろに座ってると知りながら、いらついてしまいました。

「もう、前の車割り込んできた〜。早く行けよ〜。」とぶつくさ言う私に、Fが「いらいらしたって、変わらんて。」と静かに一言。はい、その通りでした。

気を取り直してハンドルを握り、やっと駐車場から出られる、というとき、チョー方向音痴の私は、来たときと反対の方向に出てしまいました。こうなると、もうメロメロで、全然わかりません。帰りは高速使って、早めに帰ろうと思っていたのに、高速の乗り口まで見落として、帰りたい方向から遠のくばかり。

外は暗くなって来て、地図もナビもない。パニックになり、「FくんNくん、おなかすいたでしょ?ごめんね〜。お母さん、道わかんなくなっちゃった〜。でも、なんとかするからね。」と半泣きで息子たちに声をかけると、「大丈夫やって、そのうち着くやろ。焦らんでいいって。」と、穏やかな声で励ましてくれるのです。

結局、2時間かかってうちにたどり着きました。明日の朝早くきのくにへ行かなければならないというのに、とんだことでした。息子たちも家でいろいろと準備やしたいこともあったでしょうに、ちっとも私を責めることなく、Nは「俺はゆっくり寝てたけん、なんでもないよ。」と言い、Fは、「お母さん、ちょっといらいらしてたやろ。短気やなあ。」と笑われてしまいました。

この話しを夫にしたら、「子どもたち、すごいな。俺らだったら大げんか始めてるよな。時間の無駄や、とかガソリンもったいねえ、とか言って。」と驚いていました。たしかに。

きのくにで、失敗を責められたり、叱られたりしないので、自然とこんなふうに、人の失敗にも寛大になれるのかなあ、と、しみじみ思ったことでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月 7日 (木)

失敗なんて恐くない!

ラーメンゆで過ぎみたいな、失敗には事欠かないきのくにの子どもたち。そんな失敗にめげないのはとてもたくましい。

「失敗に強い」っていうのは、とても大切なことだと思います。失敗を恐れていたのでは、自由に生きられません。で、どうしてそうなれるのかな、と考えてみると、まず第一に

・きのくにでは失敗しても教師から叱られたりバカにされたりしない。

そして第二に

・失敗しても、またやり直すチャンス(時間的余裕など)がある。

からではないかと思います。

堀さんも著書でたびたびこのように書いておられます。

【自己決定を尊重するという原則は、失敗する権利の尊重と自己評価の導入とを含んでいるということだ。まず失敗に関していえば、あまりに多くの学校と家庭では、失敗が否定的にみられ、子どもたちは叱責やはずかしめ、そして体罰さえ受けている。

しかし失敗や後もどりは、成長の過程で生じる積極的な要素なのだ。大人が子どもに対して、失敗を許さないという態度を取れば、子どもは意欲や「やる気」を失う。 】 『自由学校の設計』より


一年を通してのプロジェクト活動なので、例えばパン作りをするプロジェクトの子で、一度作ったフランスパンがうまくいかなくても、試行錯誤して、何度か再挑戦することができるのです。

この点が、【時間】と【こなさなければならない課題】とに追われている管理教育との、大きな違いではないでしょうか。

昨年秋のシンポジウムで、「きのくにの生活のなかで、苦労や失敗はありますか」という質問に、卒業生がこんなふうに答えていました。

「失敗の上に成功があったし、失敗も途中からプラスに変わってきました。だから、失敗ってなんだったのかな、と考えるくらいです。」

ほんとにうらやましくなるくらい、伸びやかな成長です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月 6日 (水)

コメントは

みなさま、いつも読んでくださって、ありがとうございます。けっこう古い記事も読んでくださっているようで、うれしいです。

このブログを最近知ったというかたが、最初の記事から読んでくださっているのかな。

それで、もしそういった古い記事に関して、共感、反論など、言いたいことがあるかたは、気にせずその記事にコメントつけてくださいね。私も前のものを読み返すいい機会になりますし、他の方にも再度見ていただけたりしますので。どうぞよろしくお願いいたします。


実は先ほど、アツ〜い鍋の取っ手をぎゅっとつかんでしまい、左の親指と人差し指をひどくやけどしてしまいました。それで、なかなかスムーズにキーが叩けません。とういうことで、本日はこれにて失礼いたします。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年9月 5日 (火)

失敗する権利

Nが小学四年生のときは、『郷土料理店』というプロジェクトに入っていました。各地の郷土料理を調べたり、作ったり、もちろん食べたり。

このプロジェクトでの一年が終わる時、担任がとったビデオをいただいたので、わくわく見てみました。

ラーメン作りの場面で、Nと、同じ班の子どもたちが2、3人、頭を寄せて、ラーメンのゆで時間を検討しています。この日はどうも、これから自分たちで本格的なラーメンづくりに取り組む前に、まず、市販のラーメンをつくってみよう、ということのようでした。

Nの声がビデオから聞こえてきました。
「一人分ゆで時間3分やって。なら、4人分やから、12分くらいゆでるんやな。」

周囲にいた他の子はNよりも低学年のようで、異議を唱える声は聞こえません。

ひょえ〜。ラーメン、12分ゆでたんですか・・・? ビデオを見ながら夫と笑ってしまいました。

その後、出来上がったラーメンを食べる様子も映っていて、例の、Nのグループの子たちは、「スープはおいしいけど、麺がやわらかい!」と口々に言っています。

それしても、このビデオ、担任の教師が撮っていたんですから、この会話も聞いていたはずです。私だったら、絶対、「えっ?そんなにゆでたら柔らかくなるよ。4人分でも3分でいいんだよ。」と言ってしまっていたと思います。

そのまま、失敗するままにさせてくれたことに驚き、また、感激しました。

その後、麺ゆで過ぎ事件は起きなかったようです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月 3日 (日)

体を汚して心を洗う

タイトルの言葉、「体を汚して心を洗う」は、どろんこ保育で知られる野中保育園の園長、塩川寿一氏の言葉です。数年前、きのくに子どもの村学園主催のシンポジウムのとき、野中保育園の活動を紹介するなかでおっしゃったのです。いい言葉だなあ、と思いました。

服のことなんか気にしないで泥だらけになって遊ぶ、活動する、そうすることで、解放感に満たされていくんですね。ひとりひとりの心が解放されていてはじめてお友達のことを思いやったり、すきなことに集中したりできるような気がします。


2002年11月の『体験学習と子どもの成長』と題した、きのくにのシンポジウムのときも、体験と心の解放について、このように述べられていました。

【粉や生地の感触を楽しみ、無意識の解放を図る。】 (よくばりキッチンという、小学生パン作りのプロジェクト)


【泥まみれ汗まみれの仕事は、無意識の部分で内面の不安や緊張を解きほぐすのに役立ったように感じられる。ぞんぶんに汚れることができる解放感、泥のぬくもりと感触の心地よさなど、ふだん抑圧されている無意識の部分に働きかける力が、泥まみれの作業には十分あったと思われる。】 (動植物研究所という中学生のプロジェクトで、この年はビオトープづくりをメインに活動していた。)


見学に来られたかたなどには、「きのくにではいろんな体験ができるからいいね」と、表面だけとらえるかたが多いのですが、その「体験」には深い意味があるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月 1日 (金)

早くきのくに行きてえな

Nは先週くらいから、カレンダーを見て、「もうすぐ学校始まるな。早く行きてえな〜。」とつぶやいています。で、ちらっと私の顔を見て、「まあ、メシはうちのがうまいけどな」と、慌てて私のご機嫌をとっております。

きのくにの夏休みは9月3日までで、4日に新学期が始まるので、Nは今度の日曜日、3日にきのくにへ向かうのです。Nが行ってしまうのは、ちょっぴり寂しいけれど、学校が始まるのを心待ちにしているのは、親としてはうれしいことです。

ここ数日、来院した子どもの患者さんに、「夏休みももうすぐ終わりだね。そろそろ学校に行きたいでしょ?」と声をかけると、全員が「休みのほうがいい。」「学校楽しくない。」「うちにいるほうがいい。」という返事でした。小学生も中学生も。

人生70年だとして、その約7分の1を過ごす義務教育時代、一日の大半を過ごす学校、そこでの毎日が楽しくなくて、行きたくないところだなんて、なんてもったいないことでしょう。若くて、何にでも興味が持てて、エネルギーあふれる時代に、じっと机に向かっていて、楽しいわけがありません。

今、小、中、高校生の自殺、犯罪がものすごく多いけれど、多くの時間を過ごす学校が「楽しくない」というところにも、一因があるのではないかと思ってしまいます。教育関係者には、今の学校のありかたに問題があるのではないか、ということを考えて欲しいです。


【教育の理念と方針の反省と変革が必要なのだ。子どもたちに、自信と、成長の実感と、生きる喜びが深く大きく感じられる生活を取り戻させないといけない。休み時間やクラブ活動においてではない。学習そのものの中でだ。子どもたちが毎朝、笑顔で走って登校していく学校、それが必要なのではないだろうか。少なくとも、それが必要なのだと教師や親や教育関係者が思いを新たにすることが大切なのではないだろうか。】

『自由学校の子どもたち』より ( 黎明書房 堀真一郎著)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »